後白河院と平家の女(3)建礼門院(中の1)壇ノ浦で死ぬべきだった

  私が「百二十句本」(平仮名本)を定本とした「平家物語」(新潮古典集成)を購入して読んだのは40歳になったばかりの頃であった。その巻第十一・第百五句「早鞆」では幼帝・安徳を抱き抱えて壇ノ浦の海に飛び込んだ母・二位の尼を追って建礼門院が入水する様を次のように語っている。


 「二位殿、先帝(安徳天皇)をいだきたてまつり、帯にて二ところ結いつけたてまつり、宝剣を腰にさし、神璽(しんじ)を脇にはさみ、練袴のそば高くはさみ、鈍色(にびいろ)の二衣(ふたつぎぬ)うちかづき、すでに船ばたに寄り給ひ、『わが身は君の御供に参るなり。女なりとも敵の手にかかるまじきぞ。御恵みに従はんと思はん人は、いそぎ御供に参り給へ』とのたまえば、国母(建礼門院)をはじめたてまつり北の政所、・・・女房たちも『おくれまゐらせじ』ともだえられけり(中略)


 先帝、今年は8歳。御年のほどよりもおとなしく(大人びて)、御髪ゆらゆらと御せな過ぎさせ(背中の中まで垂れて)給ひけり。あきれ給へる御様にて『これはいづちへぞや』と仰せられければ、御ことばの末をはらざるに(お言葉も言い終わらぬうちに)、二位殿、『これは西方浄土へ』とて、海にぞ沈み給ひける(中略)


 国母(建礼門院)もつづいて入らせ給ひけるを、渡辺の右馬允番(むまのじょうつがう)という者、熊手をおろして御髪(みぐし)にかけ、取上げたてまつる」


  

 結局、建礼門院は壇ノ浦で海に身を投げたものの源氏軍の熊手に髪を引っ掛けられて生け捕りにされ、東山の麓の荒れ果てた坊で髪を下ろして出家し、その後は大原の侘しい山里の寂光院安徳天皇の後世(ごせ)と平家一門の菩提を弔って生きることになるのだが、当時の私は、「さすがに二位尼は武士の妻」と女ながらも天晴れな最期に感嘆しつつも、その母に比して何ともお嬢さん的な建礼門院の身の処し方に、「本気で死ぬ気なら何とでもなるはず」と突き放した見方をしていた。


 そして最近手にした細川諒一著『平家物語の女たち』(講談社現代新書)で、私と同じように建礼門院門に対して厳しい評価をしている女性がいた事を知ったのだが、それと同時に、建礼門院の生き方こそ中世の人生観では肯定されるべきという観方がある事も知った。


 特に後者は、動乱期に天国と地獄を一気に体験した女の生き方としてだけでなく、壇ノ浦の戦いから800年後に生きる私たちにも問いかける何かがあると思えるので、敢えて触れてみたい。但し「平家物語の女たち」で引用される「平家物語」は私の持つ「百二十句本」(平仮名本)ではなく、広く流布している延慶本がベースになっているのではないかと思われる事を前もってお断りしておく。



 そこで、先ずは、建礼門院への厳しい評価についてであるが、著者の細川諒一氏は『平家物語』巻第十一「能登殿最後」から建礼門院の入水場面を次のように引用され、


壇ノ浦の戦いに敗れ、かねて覚悟を決めた二位の尼が8歳の安徳天皇建礼門院高倉上皇の皇子)を抱き締めて、海の下にも都があると慰めて海に飛び込んだ。建礼門院はこの有様を見て、焼け石・硯を左右の懐に入れて海に入ったが、源氏軍の渡辺党の源五馬允昵(げんごうまのじょうむつる)という武士がだれとも知らず髪を熊手にかけて引き上げた。平家の女房達がこれを見て、ああ、あれは女院だと口々に言ったので、源義経に申して、急ぎ御所の船に移した」


 さる女性史研究家が、建礼門院安徳帝を抱いた二位尼が身を投げるのを御覧じてから、やおら、焼き石、お硯を懐に入れて飛び込む事について、この「御有様を御覧じて」というゆとり、いや、これはゆとりではなく、建礼門院門徳子その人の持つ「鈍さ」といったらきびしすぎであろうか。焼き石も、硯も、海底深く身を沈めるには軽すぎると建礼門院を酷評していると紹介している。


 次に、作家の永井路子氏が著作『平家物語の女性たち』で「父に言われればそのまま天皇にとつぎ、そのまま国母ともなるが、いったん落目になれば素手でそれを支える才覚も無く、言われるままに都を落ち、まわりが死ねといえば死んでもみせる。しかし本心から堅い決心をしてとびこんだのではないから、すぐ助けられてしまう。もし彼女がはげしい気性の女性であったら、こんなヘマはしなかったろうし、また助けられた後でもいくらでも死ぬ機会があったはずである。が、彼女はついぞそれをしなかった。そして生きられるだけ生きて、58歳くらいでこの世を去る」と、ほぼ私と同じような厳しい評価をされている事も述べている。


 そうなのだ、建礼門院は私を含む女性からかなり厳しい目で見られているのだ。これは素手から艱難辛苦を乗り越えて出世を勝ち取った清盛や妻の二位尼とは違い、平家一門の栄達の頂点で箱入り娘として両親の言うままに天皇に嫁ぎ、さらに天皇の母として華やかな朝廷で栄華を極めて、およそ己の意志とか自我とは無縁と思われた彼女の身の処し方に対する評価である。


 しかし、動乱に明け暮れ無常観と背中合わせに生きざるを得なかった中世という時代にあっては、平家一門と共に西海の露として消える以外に、女性として生き残って果たすべき役割りがあったと、建礼門院の身の処し方を肯定する観方も厳然として存在するが、それは次回で。