後白河院と平家の女(2)丹後局(中の3)頼朝を翻弄し兼実を失脚さ

 武家政権では棟梁となった源頼朝も、中央政治では彼が「日本国第一の大天狗」と評する後白河院の前に歯が立たず、同盟者九条兼実と共に「何事も法皇御万歳後」と院の死を待つ他なかったが、そんな二人にとって、66歳の大往生とは言え建久3年(1192)3月の後白河院の死は、いよいよ中央政治に乗り出す機会到来のはずであった。

 
 早速、頼朝の強力な支援を背に九条兼実は長年温めてきた政治改革に乗り出すが、後白河院から後鳥羽天皇の後見を託された丹後局と前摂政藤原基通、そして天皇の乳母・藤原範子の夫で急速に兼実の対抗馬として力を付けてきた源通親が結束して立ちはだかり、事は思うように運ばない。


 しかも頼みの綱とする源頼朝は、建久6年(1195)3月、東大寺供養と称して妻の政子や子女を同伴して上洛し、事もあろうに、破格の手土産を持参して丹後局に家族を引き合わせて娘・大姫の後鳥羽天皇への入内を要望する始末。


 当時の後鳥羽天皇後宮は、九条兼実中宮として娘・任子を入内させ、また、兼実の政敵の源通親も妻で天皇の乳母の連れ子・在子を養女にして入内させており、双方とも天皇の外祖父として朝廷支配を虎視眈々と狙ってひたすら皇子出産に望みをかけていたから、源頼朝からの大姫入内工作は畢竟盟友でもある九条兼実との関係を微妙なものにし、頼朝は対面を心待ちにしていた兼実と会わないまま鎌倉に戻ってゆく。


 一方、丹後局源通親陣営にとって、天皇の外祖父として朝廷支配を目論む源頼朝の入内工作は到底受け入れる事のできないものではあるが、頼朝と兼実の関係に楔を打ち込みゆくゆくは兼実を失脚させるために入内工作を利用することにして、働きかけられた丹後局は言を左右にして頼朝を翻弄する。


 そうこうしているうちに、兼実の娘中宮・任子が皇女を出産、相次いで源通親の養女・在子が皇子(後の土御門天皇)を出産したことから、次期天皇の外祖父の地位を確実に手にした源通親丹後局は結託して、建久7年(1196)11月に中宮・任子を宮中から退出させ、翌日に頼朝の支持を失い孤立していた九条兼実を失脚させ前摂政・基通を関白・氏の長者に復帰させ、さらにその翌日には天台座主延暦寺のトップ)に着いていた兼実の実弟慈円を退任させ、一気呵成に九条家の追い落としを進めたのである。


 悲惨であったのは、この急転直下をタダおろおろ眺めているしかなかった源頼朝で、肝心の大姫は入内が叶わぬまま建久8年(1197)7月に病死し、それでも諦めきれず次女・乙姫の入内工作を進めていたが、正治元年(1199)年に落馬による怪我が元で病死する。

 
頼朝の落馬については、大姫入内工作の失敗や親幕派・九条兼実の失墜を招いた不手際から、鎌倉幕府内の不満分子による暗殺説が未だ消えていないようだ。


以下は私の独断に基づく独白:


いずれにしても、武家の棟梁でありながら天皇の外祖父として朝廷支配を狙い、かつ、貴族性への憧憬が断ち切れないという点で、源頼朝は、まさにその点で、かつて批判した平清盛と全く同じ本質を持っていたのではないか。そして、まさにその点で武家の棟梁としての平家と源家の支配期間はそれほど長く続かなかったのだ。