後白河院と遊女(あそびめ)(1)絵で見る遊女

「歌は、風俗。中にも、杉立てる門(かど)。神楽歌(かぐらうた)もをかし。今様歌(いまよううた)は長うてくせづいたり」と清少納言の「枕草子(280段)」や、 
「琴笛の音などにはたどたどしき若人たちの、とねあらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり」と寛弘5年(1008)8月の「紫式部日記」に見られるように、

 今様は摂関時代から院政時代の中世の初期に流行した歌謡で、もとは遊女や京童らによって歌われ、次第に貴賎の上下を問わず広く流布していった。

 『梁塵秘抄』には、当時流行した今様の殆どの歌詞が収められおり、その多くを師と仰ぐ老女乙前や、神崎や江口の遊女から習った事が『口伝』で語られているが、「治天の君と下賤の女芸人」の芸道交流は、時にはあけすけな裏話も飛び出し、それをダンボの耳状態で聞いている後白河院の表情も偲ばれて、読む側の興味をそそる。

さて、そこで、当時の遊女は一体どのような風情であったのか、姿形を具体的に知りたくなって資料探しの末に入手したのが下記の数々である。

1. 『法然上人絵伝』から

法然上人が後鳥羽上皇の勅勘を蒙り、淀川を下って配流先の讃岐に向かう途中の室泊(むろのとまり)で、上人に「後世をどう生きるべきか」の説教を聴く為に小舟で近づく遊女。

上の絵から遊女に焦点を当てると、

『 遊女(あそび)の好むもの 雑芸(ぞうげい※1) 鼓 小端舟(こばしぶね※2)
  おほがき(※3) ともとり女(※4) 男の愛祈る百太夫 』と、
遊女が好む物を挙げた今様380番の歌のイメージ通りの遊女の様子が描かれていることが分かる。

※1 雑芸:後白河院も雑芸集を広げて今様を練習したと言われている。
※2 小端舟:小舟 
※3 おほがき:遊女にかざされた傘 
※4 ともとり女:小舟の櫓を漕ぐ女

そして、こちらは、播磨の国高砂浦で、小舟から客の船に飛び移る遊女

2. 円山応挙が描く「江口の君」

 友人から貰った美術カタログ「静嘉堂珠宝」を捲っていると、円山応挙の「江口の君図」が載っていた。解説には「西行の『撰異抄』や歌曲『江口』などに描かれる普賢菩薩の化身江口の君を描いたもので、・・・中略・・江口の君とは、平安時代から鎌倉時代に栄えた神崎川が淀川に合流する河口に数多くいた遊女の事である」と書いている。