後白河院と待賢門院〜なぜ、和歌ではなく今様か(1)待賢門院の場

「椒庭秘抄〜待賢門院鋤`子の生涯」で著者の角田文衛氏は、女院庁の別当(長官)や近臣、そして歌集に数々の作品が取り上げられ程の才能を持ち西行とも歌を交わしした堀河や兵衛を始めとする女房など、女院御所には錚々たる歌人が揃っていたにも拘らず、彼女が御所において一度も歌合を催した形跡が無いこと、また、女院は和歌が不得手であったと見えて彼女の歌が一首も伝えられていないことに触れている。

 私にとっても、崇徳天皇の母にして鳥羽上皇の后であり、皇太后女院という最高の地位を極めた女性が、宮廷人の教養として必須の和歌ではなく、遊女や近臣を集めて今様に興じていた事は大いに好奇心を掻き立てられる「何故」であったが、

このほど入手した、五味文彦著「梁塵秘抄のうたと絵」(文春新書)で、その「何故」が氷解したばかりか、長年頭の隅に引っ掛かっていた「和歌と今様の関係」についても若干であるが理解を深めることができた。


  


梁塵秘抄のうたと絵」によると、白河天皇の勅命を受けて、参議の藤原通俊が応徳3年(1086)年に撰集した勅撰和歌集「後拾遺和歌集」に載る神祇歌に、「梁塵秘抄」の今様と一致するものが多く、さらに、摂関家藤原師実が寛治元年(1094)に主催し、藤原通俊が参加した「高陽院歌合(かよういんうたあい)」で謡われた和歌が「今様」に多く謡われていることから、この頃が、今様の最初の発展期であろうとて述べ、

さらに著者は「梁塵秘抄口伝集」で語られる今様交流から推し量って、下記の「藤原通俊関係図(色と番号は私が追加)」を提示して、「後拾遺和歌集」の選者藤原通俊が待賢門院の縁戚関係にある事を示し、



その上で、下記の逸話を挙げて、女院の周囲が活発な今様の交流の場であったことを教えてくれる。上掲「藤原通俊関係図」の番号と照合しながら読んでいただきたい。

(1)「ひづめにて墨俣・青墓(※)の君ども数多喚び集めて、様々の歌を尽くしけるに」と淀の近くの桶詰で今様の会を開いたとされる藤原顕季は通俊の姉妹の夫であり、

(2)その顕季の娘を妻にした藤原敦兼は今様によって妻の気持ちを取り戻したと『古今著聞集』に記され、

(3)藤原敦兼とその父敦家は、今様名人の目井などを集めて、日頃から今様の会を開いていたと『梁塵秘抄口伝集』で語られ、

(4)さらに、藤原通俊の妹の孫になる藤原通季は、瘧(おこり)をこじらせたが、今様を謡って病を軽減させたと伝えられるほどの今様好きで、その藤原通季の妹が待賢門院であった。

なるほど、待賢門院の庇護者でもあった白河法皇が今様を好んだことも併せて、このような環境にあれば、女院が今様に興じるのもむべなるかな。

※ 墨俣(すのまた)・青墓(あおはか):共に美濃の国の遊女や傀儡子の一大拠点。