後白河院と平家の女(3)建礼門院(中の2)弔ってこそ成仏する亡魂

 「平家物語」は平家滅亡後出家して大原に詫び住いする建礼門院後白河院がお忍びで訪れる『灌頂巻』で物語を終える。その「大原御幸」で建礼門院が母・二位尼の後を追って入水しようとしたありさまを、「二位尼が『女人をば昔より殺すことなし。構えて残り留まりて、いかなるさまにても後の世を弔ひ給べし。親子のする弔ひは、必ず叶う事也。誰かは今上(安徳天皇)の後世をも、我後世をも弔はん』と建礼門院に生きるように説得した」と後白河院に語っている。


平家物語』には「灌頂巻」を含むもの、含まないものなど諸本があり、さらに「後白河院の大原御幸」虚構説も未だに存在するが、慶政上人が承久4年〜貞応元年(1222)に脱稿したとされる『閑居の友』の「建礼門院御いほりにしのびの御幸の事」に、後白河院の御幸の次第が詳しく記されている事から、細部はともかくとして後白河院の御幸自体は歴史的事実であることが今では定説となっている。


  

(「大原御幸図屏風」(見果てぬ夢(財)JR東海生涯学習財団編著より)


 中世では賊軍・敵軍とみなされた男達は乳幼児を含めて根こそぎ処刑され、彼らが生き残ることは千万分の一もないが、しかし、女を殺すことは無いから、建礼門院が生き残って8歳で死なねばならなかった息子・安徳天皇の後生(ごせ)、さらには女ながらも潔く死を選んだ母の二位の尼や無念さと共に壇ノ浦に沈んだ平家一門の菩提を弔ってこそ彼らの魂は浮かばれる、これは中世人の人生観生における女の生き方でもあると、細川諒一氏は「平家物語の女たち」で述べている。



 とすれば、建礼門院門が生き残ったのは彼女の「鈍さ」や性格ではなく、母・二位尼の言葉に従って、安徳天皇や平家一門の後生を弔い、一門の亡魂を浄土に導くために敢えて生き残ることを選んだのである。


 さて元暦2年(1185)3月壇ノ浦の戦いから一気に820年後の2月に話が飛ぶが、元同僚と有楽町で飲み会を終え、品川駅から東海道線に乗る友人を含む3人で山手線に乗り「そういえば、3ヶ月前に友人と府中の森の文楽公演を観に行く京王線で人身事故にあってさあー、1時間も電車に閉じ込められて大変だった」と私が言い終えた途端に電車がゴットンと音を立てて停車し、互いに顔を見合わせた直後に「ただ今人身事故で暫く停車いたします」のアナウンス、窓から京急ホームが見える品川駅ホームの目鼻で1時間も缶詰になったのだったが、その間、だれも人身事故を起した人の身の上に思いが及ぶことは無かった。


 その後も駅のパネルで「ただ今○○駅で人身事故の為ダイヤが乱れております」といった状況に頻繁に遭遇するようになり、テロ・殺人・事故死のニュースに接し、さらには警視庁発表の「3万人を超える自殺者が平成10年から10年続いている」との報に接すると、『死』『死者』が日常化して一人一人の死に心が及ばなくなってきていることを感じる。


 グローバル経済は、巨視的には絶対貧困層を減少させているとしても、勝者と敗者を寸時に分け、時には少なくない死者を伴なうという意味では、建礼門院の生きた800年前の乱世時代と何ら変るところが無い。


 勝つだけでは満たされない、死ぬだけが全てではない、乱世時代の「無常観」「死生観」に思いを巡らせる、建礼門院の生き方に思いを馳せてみるのも生きる強さに繋がるのではないかと思えるのだが。