近衛天皇の崩御から、自らの天皇即位が兄弟・親子が血で血を洗う内乱(保元の乱)を引き起こした経緯を、「そののち、鳥羽院かくれさせたまいて、物騒がしき事ありて、あさましき事いでて、今様沙汰も無かりしに」と、淡々と記述した後白河院が、今様の名手と評判の高い乙前と会うのは、保元の乱後の傷跡も生々しい保元2年1月頃で、そのおりの様を『口伝』で詳しく描写している。
後白河天皇が乙前の歌を何とかして聞きたいと思っいる話をあちこちにしていたところ、側近の信西入道がこれを耳にして、「乙前の子が私のところに居ますので、乙前が御所に来るよう尋ねさせます」と、使いを乙前の住む五条にやったところ、
「今様を謡わなくなって久しくなりますので、みんな忘れてしまいました。その上、こんな老婆では見苦しゅうございます」と招きに応じないので、
「たびたび責めて(しつこく催促して)、のちはしかたなきさまになりしかば、術なくて(※1)、正月十日あまりばかりに参りたりき。遣戸のうちに居て、さし出づることなし。人を退けて、高松殿(※2)の東向きの常にある所にて、歌の談義ありて、我もうたひて聞かせ、あれが(乙前)をも聞きて、暁あくるまでありて、その夜契りて(師弟関係※3)、そののち呼び寄せて、局しておき(※4)、足柄よりはじめて大曲様、旧古柳・今様・物様・田歌等にいたるまで、いまだ知らぬをば習ひ、もとうたひたる歌、節違ふを一筋(乙前流に)に改め習ひしほどに・・・・・・・」と、
やっと師と仰げる乙前を得て、相伝の師弟関係でなければ習得できない大曲・秘曲を学ぶために、彼女を内裏内に住まわせて、後白河院は本格的な今様の修業を始めることになる。この時、乙前73歳、そして後白河天皇は31歳、二人の師弟関係は、直後の平治の乱を経て騒々しい乱世のさなかを、乙前が84歳で没するまで、文字通り死が二人を分かつまで11年に亘って続くのである。
※ 1術なくて:仕方なくて
※ 2高松殿:保元の乱の時の内裏
※ 3師弟の契り:今様相伝図は別図参照。
※ 4局しておき:部屋を与えて住まわせる。
下図は諸説紛々の「今様相伝図」の中から、棚橋光男著「後白河法皇」(講談社選書メチエ)の今様相伝図に私が一部書き加えたもの。
(注)乙前は美濃(岐阜県)青墓の傀儡子(歌に合わせて人形を舞わせる芸人で今様も謡っていたが、中には色を売る者もいて遊女とも呼ばれる)で、早々と引退して当時は五条に住んでいた。