後白河院と平家の女(2)丹後局(下の2)「若狭局・丹後局母子」検

 前出「後白河院〜動乱期の天皇」において、古代学研究所の西井芳子氏は、後白河院最愛の女性・建春門院の乳母として女院の傍近く仕えた若狭局は、平清盛の祖父・正盛の娘で名前は平政子であり、女院亡き後は遺児・高倉天皇の女房として仕え、九条兼実高倉天皇譲位の意思を洩らす程の重要な立場にあったと述べている。


 であればこそ、若狭局は、治承のクーデターにおいて後白河院を都から離れた鳥羽に幽閉し、厳重な監視下に置かざるを得なかった平清盛を動かして、院の許に世話係として娘・丹後局を差し向けることができたともいえる。あの戒厳状態では、単に丹後局後白河院の寵女であっただけでは女房として出仕することはできなかったであろう。


 さて、それでは、如何なる論拠から「若狭局と丹後局が親子である」と言えるのか。ここでは若狭局が建立した「若狭局嵯峨堂」の伝領相手の特定化に関する西井芳子氏の試みと、後白河院行動記録からの裏付けを提示して見たい。


1.「若狭局嵯峨堂」伝領相手の特定化

 西井芳子氏は若狭局が山城国嵯峨に建立した若狭局嵯峨堂の「堂供養表白文」から以下の事柄を明らかにされた。


(1) 堂主・若狭局の本名は平政子で建春門院の乳母で後に高倉天皇の女房となった。


(2) 若狭局は安元2年(1176)7月8日に無くなった建春門院の菩提を弔う為に阿弥陀如来像を彫らせて女院の遺髪を納めた。


(3) 治承5年(1181)正月14日に高倉上皇崩御された時、若狭局は出家して嵯峨南辺の栖霞寺の草庵に居住し、地蔵菩薩像を造らせて上皇の遺髪を納めたが、建春門院の遺髪を納めた阿弥陀如来像と共に傍らの清涼寺南辺に建立した仏閣に安置された。


(4) これらの堂舎・仏地・居処・竹樹等は後に三品夫人に譲り自らは近くの山辺に草庵を求めて終の棲家とした。


 その上で、上記(4)の若狭局が「若狭局嵯峨堂」を譲った三品夫人の特定化に取組まれ、当時、三品と呼ばれた女性は、後鳥羽天皇の生母・藤原殖子、土御門天皇生母・藤原在子、順徳天皇生母・藤原重子と丹後局・高階栄子の4人(何れも従三位)しか存在しないこと、さらに、藤原定家の「明月記」にも若狭局嵯峨堂の伝領過程が詳しく書き留められていることから、「若狭局嵯峨堂」の伝領相手を丹後局と特定された上で、丹後局の生母は若狭局と結論付けられたのである。


 


2.後白河院行動記録からの裏付け

 ところで、棚橋光男著「後白河法皇」(講談社選書メチエ)では「後白河の行動一覧(践祚後)」として天皇践祚時の久寿2年(1155)から崩御時の建久3年(1192)までの克明な移動記録を載せている。


 これは、棚橋光男氏が安田元久著「後白河天皇移徏(いちょく)一覧」(『後白河上皇』吉川文学館)を補訂し必要情報を補って作成したもので、内裏や御所に鎮座する従来の君主とは大きく異なり、信仰心の篤さだけでなく、好奇心の塊と化して活発にあちこち動き回る後白河院の型破りな性格を物語る興味深い行動録であるが(崩御の前年には火事見物をしている)、ここでは後白河院・若狭局・丹後局の繋がりが読み取れる箇所だけを引用した(丸囲みの月は閏月)。


【安元元年(1175)(49歳)】
1.8 法勝寺(修正会) 1.11 法勝寺 3.9 平時子八条朱雀堂(堂供養) 3.13 熊野社 4.27 蓮華王院(賑給) 6.17−6.19 新熊野社・日吉社(参籠) 6.29 最勝寺(御八講始) 7.7 法勝寺(御八講結願) 8.11−8.12 平業房浄土寺堂・藤原忠親中山堂 8.22 法金剛院 9.1 鳥羽 9.9 熊野精進屋 9.−−?.7 熊野社 10.11−10.15 平清盛福原邸 12.13 山階殿                            

後白河院と建春門院が揃って御幸している。平業房丹後局の夫であり建春門院の乳母・若狭局の娘婿に当たる>


【治承2年(1178)(52歳)】
2.15 若狭局嵯峨堂(供養) 2.26 法金剛院(御遊) 2.29 熊野精進屋 3.5−3.28 熊野社 5.3 法勝寺(三十講) 5.9 新熊野社・新日吉社(小五月会) ?.14 山科殿 ?.17 新制発布 ?.28 最勝寺(御八講始) 7.7 法勝寺・最勝光院 7.18 新制発布 7.30 木津山荘(方違) 8.1 鳥羽殿 8.10−8.21 四天王寺 9.18 鳥羽殿 9.20 石清水八幡宮 10.7 中宮徳子六波羅御所 10.11 中宮徳子六波羅御所 10.25−10.27 鳥羽殿・中宮徳子六波羅 11.12 中宮徳子六波羅御所(言仁親王誕生) 12.8 最勝光院(念仏会結縁)・中宮徳子六波羅御所
 
後白河院の建春門院・高倉上皇に仕えた若狭局への配慮からの御幸か?>


【治承3年(1179)(53歳)】
1.8 法勝寺 1.11 円勝寺(修正会) 1.14 法勝寺 1.29 熊野精進屋 2.5 石清水八幡宮(参籠) 2.5−3.1 熊野社 3.18−3.19 平清盛八条邸・七條殿(舞妓に謁見) 3.20 石清水八幡宮(参籠) 4.6 新熊野精進屋 4.16 仁和寺北院 4.23−5.5 賀茂社(参籠) 5.7−5.8 宇治(方違) 5.25 法勝寺(千僧御読経始) 6.3−6.6 山科殿(修造落成) 6.21 平重盛小松邸(病気慰問) 6.28 最勝寺(御八講始) 7.3 法勝寺 7.5 法勝寺 7.7 法勝寺 7.10 七条殿?(逆修)9.10-9.21 四天王寺 10.13-10.24 石清水八幡宮(参籠) 11.20-5.14鳥羽院に幽閉される(清盛のクーデター)
<このクーデターにより丹後局の夫平業房は平家に惨殺される>


【治承4年(1180)(54歳)】
〜5.14 鳥羽殿幽閉(平清盛クーデター)5.14 藤原季能八条坊門烏丸邸 6.2−11.23 平清盛福原邸(福原遷都) 8.17 源頼朝伊豆で挙兵 11.26 平教盛六波羅邸 12.8 平重盛六波羅邸 12.15 中宮平徳子六波羅御所 

後白河院が幽閉されて4ヵ月後に丹後局が院の世話係女房として出仕>


【元暦元年(1184)(58歳)】
3.11 日吉社(参籠) 3.18 白河(方違) 4.2 日吉社 4.15 春日河原(崇徳天皇藤原頼長廟建立) 4.16 白河押小路殿(修造) 4.19 歓喜光院御所 4.26 新熊野社(精進始) 6.16 日吉社 6.26 若狭局嵯峨堂(供養) 7.2 鳥羽殿(鳥羽天皇忌日) 7.5 信業六条邸 7.7 法勝寺(御八講結願) 8.11−8.18 鳥羽成菩提院(御念仏会) 8.18 清水寺 9.15 日吉社(参籠・如法仁王会) 12.12 日吉社  
  
<養和元年(1181)1月14日の高倉上皇崩御に伴ない落飾して嵯峨堂に篭って晩年を過ごすことにした若狭局の供養に御幸されたものと思われる>


【文治2年(1186)(60歳)】
1.19−1.28 伏見殿 2.1 伏見殿 2.7 石清水八幡宮 2.13 日吉社 2.25 仁和寺常盤御堂(大般若経供養) 2.27 仁和寺 3.1 新熊野社 3.26 伏見殿 4.7−4.14 新熊野社(参籠) 6.5 女房丹後局(高階栄子)宅 6.7 新熊野社(精進) 7.7 藤原経宗大炊御門邸 7.21 日吉社(参籠) 7.27 浄土寺堂(平業房追善) ?.20 伏見殿 8.1 八条院御所 8.11−9.3 四天王寺(逆修・万灯会) 9.3 六条殿 9.23 藤原経宗大炊御門邸 10.5−10.26 大炊御門御所 11.13 白河押小路殿


【建久2年(1191)(65歳)】
1.8 法勝寺(修正会) 1.11 白河押小路殿・法勝寺 1.14 法成寺南殿(御斎会) 1.16 石清水八幡宮 1.18 蓮華王院(修正会) 1.20 日吉社 2.3 浄土寺丹後局(高階栄子)逆修五十講) 2.7 七条殿 2.9 浄土寺 2.29 仁和寺法金剛院・浄土寺 3.1 新熊野社(参籠) 3.22/3.28 新制発布 4.1−4.19 熊野社 4.30 新日吉社(新日吉祭) 5.1 四天王寺(方違) 5.14 火事見物 5.15−5.23 四天王寺(方違) 6.8−6.16 新熊野社(参籠) 


【建久3年(1192)(66歳)】
3.13 午前4時崩御(66歳)「太上法皇、六条殿において崩御。御不予(病気)は大腹水と云々。大原本房上人を召して御善知識と為し、高声の御念仏七十反。御手に印契を結び、臨終正念、居ながら、睡るがごとく遷化せりと云々」(『吾妻鑑』)