2012-01-01から1年間の記事一覧

描く人願望(2)「お絵描き帳」’74長崎 ロシア料理 ハルビン

ロシア料理店なのに中国黒龍江省の省都「ハルビン」を店名にしているところが二重に異国情緒をかきたてる。当時は今や死後と化している「アンノン族」のホットスポットであり、その一翼を担っていた私たちもガイドブックに赤丸を記してワクワクしながら足を…

後白河院と寺社勢力(116)遁世僧(37)法然(9)『選択集』に

九条兼実の要望によってはからずも述作することになりながら、覧後は直ちに壁の底に埋めて人目に晒す事のないようにとの文章で閉じられた法然の『選択本願念仏集』(略して『選択集』)は、本人の意に反して入滅の年の建暦2年(1212)に開板された事で…

描く人願望(1)「お絵描き帳」’74長崎ホタル茶屋下車

「描く人願望」止み難く、遂に乏しい年金暮しのフトコロからやりくりして4月から週に一度デッサン教室に通い始めた。で、それを機にクローゼットの奥深く仕舞いこんでいた折々の手遊び「お絵描き帳」を取り出ししげしげ眺めてみる事に。 画面右上に「長崎 …

157 後白河院と寺社勢力(115)遁世僧(36)法然(8)来世

藤原定家の『明月記』は建仁元年(1201)10月17日に九条兼実の娘で後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)が出家した時に法然が戒師をつとめ、翌年正月28日の兼実の出家にも法然が戒師をつとめたことを驚きをもって記している…

外国と私(5)「ビザ」と「壁」

「東側」といえばお隣の中国に対するわが国のビザ発給はどうなっているかといえば、外務省は2011年9月1日付で中国人観光客向け査証(ビザ)発給要件を緩和する方針を打ち出しており、それについての同年8月10日・11日付の朝日・毎日・読売・産経…

後白河院と寺社勢力(114)遁世僧(35)法然(7)夢中面授

『観無量寿経』(※1)の「即是持無量寿仏名(念ずるとは阿弥陀仏の名をひたすら称えることである)」こそ三学非器の乱想の凡夫が往生できる道と確信した法然は、経蔵に籠もりあれこれの経典を搔き分け搔き分けして、遂に善導の『観無量寿経疏』(※2)から…

外国と私(4)ビザから見えた「東側」

現在では観光目的での90日間以内の滞在であればチェコもハンガリーもビザ申請を必要としないが、1995年9月中旬から11日間の日程でベルリン→ドレスデン→プラハ→ブダペスト→ウィーンを巡った旅行では、当時「東側」と称する国が含まれていたこともあ…

後白河院と寺社勢力(113)遁世僧(34)法然(6)観念か称名か

財もなく、読み書きも出来ず、毎日毎日を喰う事に追われる庶民と自らを含めた三学非器の凡夫が成仏できる法門はどのようでなければならないか、再び黒谷に戻った法然の求道は『無量寿経』(※1)の説く「阿弥陀仏の本願」にたどりつくまで25年も続いた。 …

外国と私(3)日米「ビザ免除」考

2004年にハーバードサマースクールに入学する際の学生ビザ申請でアメリカ大使館に赴いた経緯は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako+kankyo/20120320/1332249023)が、 1977年12月末からの年末年始休暇を利用したサンフランシスコ・ロスアン…

後白河院と寺社勢力(112)遁世僧(33)法然(5)保元の乱と清

叡山西塔黒谷の慈眼房叡空の庵の法然は、5048巻もの経巻を含む膨大な『一切経』を何度も何度も繰り返して目を通すだでなく、他宗の教義にもことごとく目を通して幅広く仏法教義を深め、師の叡空との問答では鋭さで師をたじたじとさせることも度々であっ…

外国と私(2)1978 サンフランシスコ 苦みが走ったエビ

シーフード大好きの友人と私にとってサンフランシスコ湾に面したフィッシャーマンズ・ワーフは何はさておいても足を運びたい場所であった。何しろ目の前の海から採れ採れの魚介がストレートにレストランのキッチンに運ばれて客に供されるのだから新鮮さにお…

後白河院と寺社勢力(111)遁世僧(32)法然(4)三学非器の法

15歳で叡山一の碩学・皇円の弟子として戒壇院で大乗戒を授けられ、周囲もうらやむ環境で出家した勢至丸(法然の少年時の名)だが、「早く俗を逃れて出家し自らの解脱を求めよ」との父の遺志を守りたい彼とっては望ましいものではなく、16歳になって「名…

外国と私(1)1977年サンフランシスコ 空港のトイレ

私が始めて海外旅行をしたのは1977年(昭和52)で33歳の時であった。その動機は当時友人と通っていた飯田橋の英会話学校の成果を試す為であったと思うが、ビートルズ全曲を英語でマスターしたい団塊世代の友人と異なり、連れ習いの私には英語修得に…

後白河院と寺社勢力(110)遁世僧(31)法然(3)力量が師を選

美作の国に菩提寺という山寺があり、元は延暦寺の学徒であったが大業達成の見込みが薄い事を悟って南都で法相学を修めた観覚得業(かんかくとくごう)が院主を勤めていた。観覚得業が勢至丸(法然の少年時の字)の母の弟でもあったことから、「早く俗を逃れ…

五番街からの強烈なご挨拶

1986年の5月初旬、友人と私は前日ケベック州で買ったばかりの手触りが柔らかくて艶のある革ジャンを着こんで颯爽とニューヨーク五番街にデビューした。 さすがに世界中から富と人材が集中するだけあって、華やかな通りでは肌の異なる多様な人々が背筋を…

後白河院と寺社勢力(109)遁世僧(30)法然(2)父と子の無常

法然上人に深く帰依した後伏見上皇(1288〜1336)の勅命を受けた比叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が徳治2年(1306)に着手して10年余りの歳月をかけて作り上げた『法然上人絵伝』によれば、字を勢至と号した若き法然が、師である比叡山功…

アメリカ大使館門前 1981 & 2004

(1) 1981年4月 その当時私が定期購読していた音楽雑誌「FMファン」は、世界のジャズ好きを招きよせて毎年4月末から5月初旬にかけて繰広げるニューオリンズのジャズフェスティバルをカラフルな写真つきで特集していた。その中でも長期間に亘って…

後白河院と寺社勢力(108)遁世僧(29)法然(1)遺骸の改葬

安元元年(1175)に法然が専修念仏立宗を宣言して以来、事あるごとに「専修念仏停止(ちょうじ)」を朝廷に強訴していた山門(延暦寺)の大衆は、建暦2年(1212)の法然の死後も攻撃の手を緩めることなく、嘉禄3年(1227)6月には法然の遺骸…

2000年6月7日付USA TODAYとスターバックス

2000年6月初旬、私は友人Mさんのハーバード大学ケネディスクール卒業ランチョンセレモニーの招待を受け、メーカー勤務の友人Kさんと休暇をやりくりして5泊の短いボストン滞在を楽しんでいた。 ハーバード大学の卒業式は、午前に全校式典があり、お昼前に…

後白河院と寺社勢力(107)遁世僧(28)南都(3)諸宗交流と再

さて、「世業」を厭った円照(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120218)の遁世後の活動はどのようなものであったか。 彼の弟子で後に東大寺戒壇院長老となった凝然が著した『円照上人行状』では、14年に亘る東大寺大勧進の活動や、正嘉元年(1257)の…

「金利生活者」と国語辞典

で、前回取上げた年7分2厘5毛の公社債投信コースの金利である。 たしかに「年7分2厘5毛」の金利なら元金が一億円位あれば働かなくても「金利生活者」としてそこそこ結構な暮らしが出来るし、永井荷風、太宰治、芥川竜之介など昭和のある時期までの日本…

後白河院と寺社勢力(106)遁世僧(27)南都(2)名利に繋がる

ここで院政期の仏教政策に触れると、法勝寺を始めとする尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の六勝寺を御願寺と位置づけ、これらを舞台に上皇・天皇・女院を始めとする皇族に関白以下殿上人が、畿内から数百人にのぼる僧侶を召請して華麗かつ荘厳な法会…

古書から滑り落ちた時代の断片

私の古書街漁りは、OLとして働き始めた大手町の職場からゴトゴト都電に揺られて神保町入りをした頃から始まっている。都電が消えてからはトコトコと徒歩で通い、60歳の定年退職後は都営地下鉄で月に一度は神保町詣でをしている。 捜し求めた獲物を手にし…

後白河院と寺社勢力(105)遁世僧(26)南都(1)世業を厭って

鎌倉後期の華厳宗の僧で『八宗綱要』『三国仏法伝通縁起』などを著し東大寺戒壇院の長老を務めたた凝然(ぎょうねん)が、師の戒壇院中興の祖・実相房円照(1221〜1277)の生涯を描いた『円照上人行状』には「世業」あるいは「世栄」を厭って遁世し…

後白河院と寺社勢力(104)遁世僧(25)大勧進重源(22)支度

建久6年(1195)3月12日、鎌倉中の御家人を率いた源頼朝が臨席して東大寺大仏殿供養が盛大に催されたその日に、重源は弟子の含阿弥陀仏(ごんあみだぶつ)定範(じょうはん)に充てて一通の譲り状をしたためた。 東大寺復興事業はその後も戒壇院・南…

後白河院と寺社勢力(103)遁世僧(24)大勧進重源(21)日宋

東大寺復興事業で大勧進重源に重用された宋人は大仏鋳造や大仏殿再築で中核を担った陳和卿だけではなかった。建久7年(1196)には大仏殿内の石像菩薩像や四天王像、および中門の石獅子の彫像では宋人石工(いしく)伊行末(いぎょうまつ)が手腕を発揮…

後白河院と寺社勢力(102)遁世僧(23)大勧進重源(20)結縁

平安時代後期に造像技法としての寄木造りが考案された事から仏像内に納入空間が生じ、願主や結縁者がそれぞれの願いをこめて願文や様々な品物を奉籠して信仰心を表現することが可能になった。 平成元年(1987)7月から東大寺南大門仁王尊像吽形の解体修…

後白河院と寺社勢力(101)遁世僧(22)大勧進重源(19)善知

東大寺大仏は聖武天皇の発願で天平勝宝4年(752)に創建されたが、それに先立つ天平12年(740)年、河内国大県郡(おおがたぐん)の庶民による寄進で造立・運営されていた知識寺の大仏を参拝された時「朕も造り奉らん」と決意されたとも伝えられて…