後白河院と寺社勢力(106)遁世僧(27)南都(2)名利に繋がる

 ここで院政期の仏教政策に触れると、法勝寺を始めとする尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の六勝寺を御願寺と位置づけ、これらを舞台に上皇天皇女院を始めとする皇族に関白以下殿上人が、畿内から数百人にのぼる僧侶を召請して華麗かつ荘厳な法会を頻繁に催して王法と仏法の永遠の繁栄を祈っていた。

 その中でも法勝寺は「国王の寺」として奈良仏教・天台宗密教浄土教を統合しており、法勝寺の別当・検校・供僧(ぐそう:所属僧侶)は延暦寺園城寺興福寺東大寺から任ぜられていたが、各寺院の長である座主や別当並びに僧綱(※1)の補任権は上皇が一手に握っていた。


(上図は僧綱位を示す立襟の僧綱襟を着した僧。「法然上人絵伝」より)

 寺僧の出世の頂点とされる僧綱に昇るには、法勝寺の大乗会と円宗寺の法華会及び最勝会の北京(ほっきょう)三会、あるいは興福寺維摩会と薬師寺の最勝会と大極殿の御斎会の南京(なんきょう)三会の講師を勤めたり、多くの法会に聴衆として参加して実績を積む事が必須で、これらの法会に参加するには上皇天皇からの招待を請ける事が条件となっており、これを公請(くじょう)という。

 さらに下って寺内の仕組を述べると、寺僧は寺内の法会への出仕が義務付けられ、出仕すれば寺供を得られるが供無断欠勤をすれば「不参の科」が課せられる事になっており、法会出仕を求める請定は衆議を請けて事務方である年預五師が「名帳(僧名帳)」から氏名を抜き出して記載した。

 それでは「名帳(僧名帳)」に名前が載るということはどういう特権を有するかを知る為に、逆に罪科の重みによって「名帳」から名を消される例を述べると、

 落書によって殺害事件の加害者が寺僧と判明した起請文によると「寺僧においては永く名帳を削り、大小寺供所職は悉(ことごと)くこれを改替し、従房は破却せしむべし・・・・」とつづき、さらに「六親」をも連座となっている。

 つまり、世業に従事する僧とは、所職を保有して僧名帳に名前が記載されている「寺僧職」を意味し、そこから遁世するということは、所職を解かれ、僧名帳からも名前を抹消されて請定による法会に出仕する必要もなくなるが、公請に招かれて僧位・僧官の階梯を昇る名利の道も閉ざされるという事を意味する。 

(※1)僧綱(そうごう):僧尼を取締り諸大寺を管理する僧職。僧正・僧都・律師からなる。


参考文献:『日本の社会史 第6巻 社会的諸集団』 岩波書店