後白河院と寺社勢力(109)遁世僧(30)法然(2)父と子の無常

 法然上人に深く帰依した後伏見上皇(1288〜1336)の勅命を受けた比叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が徳治2年(1306)に着手して10年余りの歳月をかけて作り上げた『法然上人絵伝』によれば、字を勢至と号した若き法然が、師である比叡山功徳院皇円の「学道を究めて大業を遂げて円宗(天台宗)の棟梁となりたまえ」との進言を振り切って数え18歳で遁世し西塔黒谷の慈眼房叡空に弟子入りした理由を、

“幼稚の頃より成人の今に至るまで父の遺言忘れがたくして永久(とこしなえ)に隠遁の心ふかきゆえ”と述べている。


 

(黒谷の叡空上人の庵を訪ねた若き日の法然 『法然上人絵伝 上』中央公論社より)

 この事から法然の人生に大きな影響を与えたのは父であった事がわかる。それでは法然の父はどのような遺言を幼少の彼に残したのであろうか。

 法然は長承2年(1133)美作国押領使(おうりょうし)・漆(うるま)時国の待望久しい一粒種として生まれが、保延7年(1141)、法然が9歳の時、父時国と対立していた美作国稲岡庄の預所(※1)明石定明の夜討ちにより深手を負い、わが子に向かって「仇討ちはするな。もしすれば代々遺恨が続く。お前は早く俗を逃れて出家し私の菩提を弔い自らの解脱を求めよ」と言い残して息を引き取った。
 
 漆時国が担っていた押領使とは国司(※2)の指揮下で兵を率いて国内の反乱鎮圧及び凶賊を鎮圧する令外(※3)の臨時の地方役人で、主に郡司や地方の有力武士が任命されていた。

 ここで私が注意を払うのは『法然上人絵伝』の詞書が法然の父・時国について、

“彼の時国いささか本姓に慢ずる心ありて稲岡庄の預所・明石定明を侮って執務に従わず面謁(めんえつ:貴人に面会すること)せざれば定明深く遺恨して時国を夜討ちにす”と描写している事である。

 いかにも律令制崩壊によって弱体化した財政基盤を膨大な荘園拡大策によって維持した後伏見天皇比叡山高僧の視点である。

 しかし、漆時国の思いは違っていたのではないか。ここで私の独断を展開するなら、

 『法然上人絵伝』の詞書通り漆時国の先祖が西三条右大臣(光公)の末裔で、仁明天皇(在位833〜855)の時代に陽明門で蔵人を殺した咎で美作国に配流されたとするなら、

 彼ら一族は配流地美作に根をおろして、天平15年(743)に制定された土地法である墾田永年私財法(※4)に依拠して、約3百年に亘って営々と荒地を開墾して地方の有力開発地主になった事は容易に想像できる。律令制崩壊に伴う国家の弱体がなければ所定の税さえ納めていれば一族の財産は安全に守られていたはずであった。

 しかるに、国家の弱体がもたらす無政府状態に直面して、もはや彼ら開発地主は自力で一族の財産を守るために武力を備えて闘う他は無かった。そんな中で武力をつけた漆時国は国司から国内の反乱鎮圧、凶賊追討のための押領使を任命されるに至ったのではないか。

 反乱鎮圧、凶賊追討だけでも常に身の安全が脅かされる任務であったところに、院御所・朝廷・摂関家・寺社などいわゆる国家支配層である権門寺社が、律令制崩壊に伴う弱体化した財政基盤を補うためにに積極的な荘園拡張に乗り出した事から(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100329)、

 権門の威を借りる明石定明のような荘園領主の手先・預所との抗争が漆時国のような国司の下級役員の肩に新たに圧し掛かってきたのである。

(警護の従者を配し、枕上に黒漆太刀と傍らに甲冑を据えた時国の寝所『法然上人絵伝上』より)

 国家安泰のために身体を張って任務に当たっていたはずが、その国家支配層の権門寺社が自らの財政基盤強化策として荘園拡大を積極的に展開した為に、下級役員の自分は虎の威を借りる権門寺社の手先・明石定明の夜討ちにあって命を落とす破目に陥った、漆時国はこの世のあり様に深い無常を感じずにはいられなかったのではないか。そして、幼い息子をこのような俗世に残したくなかったのだ。

 他方、9歳にして自分の父親が目の前で殺された法然にとっても絶望と無常観は限りないものであったろう。

 この時、鳥羽上皇は寵愛する美福門院腹の体仁親王近衛天皇)を即位させる為に崇徳天皇に退位を迫り、時代は「武者の世になりける」と慈円を嘆かせた保元の乱(1156)に向かって大きく動いていた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090223)。

(※1)預所(あずかりどころ):荘園で領家(領主)の代理となって荘務すなわち荘地・荘官・荘民・年貢などを管理する職。

(※2)国司(こくし):律令制で朝廷から諸国に赴任させた地方官。徴税請負の任務も負う。

(※3)令外(りょうげ):「令の規定以外」の意味で令外の官

(※4)墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう):天平15年(743)に制定された土地法。条件付で開墾地の永久私有地を認め、これによって大寺社・権門勢家による開墾が盛んになり荘園制度の成立に繋がった。なお墾田とは律令制下、新たに開墾した田地で公墾田・私墾田がある。


参考文献は以下の通り。

『続日本の絵巻1 法然上人絵伝 上』 中央公論社

『転形期 法然と頼朝』 坂爪 逸子 青弓社