建久6年(1195)3月12日、鎌倉中の御家人を率いた源頼朝が臨席して東大寺大仏殿供養が盛大に催されたその日に、重源は弟子の含阿弥陀仏(ごんあみだぶつ)定範(じょうはん)に充てて一通の譲り状をしたためた。
東大寺復興事業はその後も戒壇院・南大門の建立、南大門金剛力士像を始めとする諸仏・諸菩薩像の造立へと続くが大仏殿落慶供養で山を超えた。それに、このような一過性の大事業は必ず終わりを迎える。その時、この事業のために彼が率いてきた年来の同行衆(勧進聖集団)をどうするか、さらには、齢(よわい)75歳の自分が没した後の彼らの行末も考えなければならなかった。
養和元年(1181)8月に61歳で東大寺大勧進を拝命して復興事業を推進する過程で、重源は荘園・堂舎・別所などの財産を築いてきたが、彼はそれらを東大寺寺域内に造営した「東南院」に寄進し自ら「院家の棟梁」として管理してきた。
そこで、その「東南院」院家一門の財産と勧進聖集団の組織の後事を弟子の含弥陀仏を院主(いんす)に据えて託し、東大寺東南院を拠点にした荘園・堂舎・別所などの管理・運営によって維持しようとしたのであった。
この別所とは、浄土教布教の拠点として、あるいは東大寺復興事業の拠点として創建した東大寺別所(浄土堂)、高野山新別所(専修往生院)、周防別所(阿弥陀寺)、伊賀別所(新大仏寺)、摂津の渡辺別所、備中別所、播磨別所(浄土寺)の七別所を指す。因みに伊賀別所は、建久元年(1190)に宋人鋳物師・陳和卿が大仏鋳造の功賞として朝廷から賜わった伊賀国の荘園を陳和卿が重源に寄進した事から造営された。
これらの別所はそれぞれ丈6の阿弥陀如来像と浄土堂を備え、阿弥陀号をもつ年来の同行衆が預所職を務めて荘園の管理・運営に当たり、20〜30人の聖が止宿して堂舎の周囲の荒地を開発して伽藍を建立したり田畑を開墾して彼らの衣食を賄っていた。
さらにそれから8年後の建仁3年(1203)11月30日には後鳥羽院や院宮諸家、公卿の列席を得て東大寺総供養が営まれるのだが、その頃から重源は「衆生(しゅじょう)を利する」目的で自らが主唱して大土木工事の勧進を行ってきた生涯を顧みて「南無阿弥陀仏作善集」を書き始めている(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110928)。
そして建永元年(1206)6月6日、重源は東大寺浄土堂で弟子たちに見守られながら86歳の波乱に満ちた生涯を静かに閉じるのであるが、2代目東大寺総勧進に宋から同じ船で帰国した栄西が就任したことから、宋における勧進活動に手腕を発揮した栄西の実力を知る重源の進言によるものとされている。
上図左:俊乗房重源上人坐像(『国宝南大門仁王尊像修理記念 東大寺展』朝日新聞社より)
上図右:栄西画像と栄西自筆書状(『栄西』 多賀宗隼著 吉川弘文館より)
昨今、人生の終わりを迎えるにあたっての身の処し方が大きな関心事になっているが、重源の節目節目の処し方を見ると、さすが「支度第一重源」と唱われただけのことはあると感嘆するほかはない。