アメリカ大使館門前 1981 & 2004


(1) 1981年4月

 その当時私が定期購読していた音楽雑誌「FMファン」は、世界のジャズ好きを招きよせて毎年4月末から5月初旬にかけて繰広げるニューオリンズのジャズフェスティバルをカラフルな写真つきで特集していた。その中でも長期間に亘って入場料$1で人気を博していたライブハウス「プリザベーション・ホール」に関する記事に魅了されて私とジャズ狂の友人はその年のGWの旅行先をニューオリンズナッシュビル、そしてボストンに決めたのであった。


 

(当時$1ドル入場券で名を馳せていたプリザベーションホール)


 しかし、当時は日本人のアメリカ旅行は西海岸が主流でボストン、ニューヨークは別としても、ニューオリンズナッシュビルに関する市販のガイドブックは皆無に等しく、仕方なく私はアメリカ大使館に当たることにした。

 あの時私が訪れたアメリカ大使館は警護も無くひっそりとして、門に取り付けたインターフォンから訪問要旨を告げると「どうぞ」と柔らかい女性の声と共に門がスーッと開き私はとっとと中に入っていったのだが、その門の内側も静かで人影もなく、おもむろに開いた受付窓からおだやかな中年の日本人女性が顔をみせて、ニューオリンズナッシュビルの商務省発行のパンフレットを手渡してくれたのだった。テロという言葉を聞くこともないのどかな時代であった。


(2) 2004年4月

 その年の5月31日に定年退職をむかえる私は「隠居の門出」と称して6月末から始まるハーバード大学サマースクールに留学する事にして、「I-20」と称する学生ビザの面接付申請のアポイントをネットでとり、指定時間の午前9時より相当余裕を持って家を出たのだが、到着したのは大使館門前ではなく、要塞と化したアメリカ大使館門の長い塀に沿って延々と続く列の最後尾だった。

 所在無く立ちつくして待つこと2時間余り、やっと門前にたどり着くと物々しい警護の中で書類内容をちぇっくされ、そして持物点検だけでなく、保有していた全ての飲食物を傍らの段ボール箱に入れるように指示され、なんとか門の中に入れたと安堵するも、眼前に展開するのは奥の建物に向かって続く長蛇の列。強風や強雨、炎天の場合は簡易テントくらいは用意してくれるのであろうかと取りとめのないことを考えてしまった。

 頭がぼやけ足に痛みが生じてきた頃にやっと申請オフィスの入り口に達して係官に申請書類を手渡したところで、時計・ビデオ・携帯などの機器類を一時預けさせられたのだが、9時前に到着してから既に4時間近く経過しており、このテンポでは友人とのランチは大幅に遅刻だなと思うとイライラが昂じてきた。

 ところが、いざ名前を呼ばれて(これは早かった)窓越しに面接官と対面して二言三言交わしただけであっという間に手続きは終了し、はるか前に並んでいた人々を尻目に私は友人とのランチ場所に10分遅れで到着出来たのだった。

 思うにハーバード大学発行の「I−20承諾書」が大いなる効力を発揮したのだ。そしてビザは翌日早々と我が家に到着した。


(2004年ハーバード大学サマースクール入学案内)