後白河院と寺社勢力(110)遁世僧(31)法然(3)力量が師を選

 美作の国に菩提寺という山寺があり、元は延暦寺の学徒であったが大業達成の見込みが薄い事を悟って南都で法相学を修めた観覚得業(かんかくとくごう)が院主を勤めていた。観覚得業が勢至丸(法然の少年時の字)の母の弟でもあったことから、「早く俗を逃れて出家して解脱を求めよ」との父の遺言に従って9歳の勢至丸が身を寄せたのはこの菩提寺であった。

 菩提寺で教学に励む勢至丸の器量が並でない事を見抜いた観覚は、甥をこのような田舎で埋もれさせるのは惜しいと、自分が若い頃に教学を学んだ叡山で修行させる事を考え、久安3年(1147)2月、勢至丸が15歳の時に叡山西塔・北谷の持宝坊源光に紹介状を認め弟子僧を共にして送り出す。

 当時の叡山は、仏教だけでなく医学・土木学を含む総合知識の最高学府として圧倒的な存在感を確立して天下の秀才が集まる場であったから、この並外れて優秀な甥が自分が叶えられなかった夢を実現してくれるのではないかと観覚が夢見たとしても不思議ではない。

 舞台は変わって叡山西塔の北谷、観覚の依頼で勢至丸に対面した持宝坊源光が釈迦一代の教説を四種に整理した「四教義」を授けたところ、その教義に対する勢至丸が指摘した疑問点によって彼の円宗(天台宗)法理の理解の深さが並でない事を知る。

 つまり、「質問力」がその人の質の高さを表すというのは何も今に始まった事ではなく、どのような質問をするかでその人の力量が問われるとするのは古今東西の理である。

 勢至丸を弟子入りさせて2ヵ月を経た頃には、師の持宝坊源光自身が「自分は勢至丸を指導するには余りにも浅学だから、碩学につけて天台宗をもっと深めさせた方がよい」と思うに至り、久安3年4月に叡山一の碩学と評された肥後阿闍梨(※1)功徳院皇円に弟子入りさせた。

そして、同年11月8日、勢至丸は皇円の勧めで剃髪して比叡山戒壇院で大乗戒を授戒する。


(授戒の前に剃髪する少年時代の法然 『法然上人絵伝 上』より)

(※1)阿闍梨あじゃり):<仏>師範たるべき高徳の僧の称。密教で修行が一定の階梯に達し、伝法
    灌頂により秘法を伝授された僧。日本では天台、真言の僧位。
 

参考文献は以下の通り。

『続日本の絵巻1 法然上人絵伝 上』 中央公論社

『日本の名僧 念仏の聖者 法然』 中井 真孝(編) 吉川弘文館