後白河院と寺社勢力(108)遁世僧(29)法然(1)遺骸の改葬

 安元元年(1175)に法然が専修念仏立宗を宣言して以来、事あるごとに「専修念仏停止(ちょうじ)」を朝廷に強訴していた山門(延暦寺)の大衆は、建暦2年(1212)の法然の死後も攻撃の手を緩めることなく、嘉禄3年(1227)6月には法然の遺骸を暴いて鴨川に流すべく朝廷を押し切って法然が埋葬されている大谷廟堂(霊廟)を打ち壊しにかかったが、鎌倉幕府六波羅探題に武力で追い返されている。

 何しろ57年間も専制君主であり続けた白河法皇をして「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ、朕が心に従わざる者」と嘆かせ「白河法皇の天下の三不如意」の一つとして悪名を轟かせた山門大衆である。

 彼らがこのままでは引き下がらない事は明白で、法然の弟子と六波羅探題はその夜秘かに法然の遺骸を避難させることを決め、六波羅軍兵と供に、法衣の上に武具甲冑で身を固めて郎党を従えた法然の弟子で鎌倉御家人の宇都宮弥三郎入道蓮生、千葉六郎太夫入道法亜、渋谷七郎入道道遍、頬宮兵衛入道西仏たちが路次の警護を固める中を嵯峨野に向かったのであった(下図はいずれも『法然上人絵伝下』中央公論社より)。


 

法然の遺骸を運ぶ法然の弟子たち)


 

法然の遺骸を警護して後に続く法然の弟子の鎌倉御家人たちと六波羅軍兵)


山門大衆と墓暴きに関連して思い出すのは、またもや白河法皇が絡んだ以下のエピソードである。

 「天下の政を執る事57年、意に任せ法に拘らず除目叙位を行ない給う」白河法皇が77歳まで長生きして太治4年(1129)7月7日に崩御したのだが、その白河法皇は日頃から自分の没後は火葬をしないで生前の形を残して鳥羽の塔の下に遺骸を埋めよ、と、近臣の藤原長実に指示していたが、

 死ぬ半年前になって「以前山門大衆と故・関白師通が対立した時、師通の死後、大衆がその遺体を掘りあばいて処刑しようと相議したと聞くが、もし我が屍を葬らなければ、そのようなことを思い立つこともあるまい」と、たちまち意向を変えて、にわかに火葬の準備に取り掛かかり、不足している布の調達を長実に指示している。 

生前に自らの火葬の準備を調える白河法皇も驚きだが、恐るべきは山門大衆である。
何故、彼らはこれほどまでに法然を容赦しなかったのか。


参考文献:『転形期 法然と頼朝』 坂爪 逸子 青弓社