後白河院と寺社勢力(114)遁世僧(35)法然(7)夢中面授

  『観無量寿経』(※1)の「即是持無量寿仏名(念ずるとは阿弥陀仏の名をひたすら称えることである)」こそ三学非器の乱想の凡夫が往生できる道と確信した法然は、経蔵に籠もりあれこれの経典を搔き分け搔き分けして、遂に善導の『観無量寿経疏』(※2)から「一心専念弥陀名号、往生坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(時間の長短にかかわりなく、いかなる状態においても専ら一心に弥陀の名号を念じ続ければ、この事こそ弥陀の本願に叶っているのであるから正しく定まった行と名づける)」の一節を見いだして歓喜する。

 この『観無量寿経疏』は唐僧・善導が夢に現れた僧に姿を変えた弥陀から授けれれた玄義(※3)であり、西方極楽浄土への往生を志す行者への指南書であるが、唐では善導は弥陀の化身とされ、『観無量寿経疏』は弥陀が直接説いたものとみなされていたから法然歓喜したのも道理であろう。

 ところで法然の弟子・親鸞が書写したとされる『西方指南抄』では、法然が夢の中で「腰より上は墨染にて腰より下は金色」の善導に遭遇した逸話を「法然聖人御夢想記」として引用しているが、ここではその場面を具現化した『法然上人絵伝』で状況を想像していただくとして、この場面で二人が交わした問答は次のようなものであった。


(『続日本の絵巻1 法然上人絵伝 上』中央公論社より)

  恭しく法然が、上半身は墨染で下半身は金色の僧に対して「これは誰人が来られたのですか」と問うと、「われは善導である」と答えがあり、法然がさらに「何ゆえに来り給うたのですか」と問うと「汝が専修念仏を広める事を甚だ貴いことであると思うゆえに来たのである」と答え、重ねて法然が「専修念仏の人は、みなもて往生するでしようか」と問うとと、答えをうけたまわらないうちに僧は姿を消し法然も忽然と夢から覚めた。

 話は飛ぶが、当時の禅宗における入宋僧の目的が、正師を求め嗣書(※4)による印可(※5)を授けられる事にあるとしたら、命がけで大陸に渡るだけでも大変なのに、主流や本流に満足しない道元のような僧ににとっては、大陸の広大な国土を遍歴しまわらなければならず、まるで江戸時代の武士の敵探しの旅のような不確実さが伴っていた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110616)。

 面授とは師と弟子が直接対面して仏祖正伝の仏法が伝えられる事だが、道元の場合は、正師を求めて諸山・諸寺歴訪の旅を終えて天童山に戻り、如浄を一目見た時から、自分が正伝の仏法を受け継ぐ正師はこの人を置いて他には居ないと悟っており、この仏仏祖祖の面授を境に道元は如浄の下で厳しい修行に励みながらも濃密な時間を持つ事になる。

 ところで、阿弥陀の化身とされる善導は夢の中に現れた僧侶の姿をした阿弥陀から玄義をうけたとされ、その善導は上半身墨染で下半身金色の僧侶に姿を変えて法然の夢に現れ、乱想の凡夫が極楽往生する道として専修念仏の創宗を志す法然の背中を押す。

 この事こそ「面授」であって何であろう。道元は遥か大陸の天童山で正師と仰ぐ如浄に巡り合い、法然は三学非器が成仏できる道は善導の教える専修念仏しかないと全身全霊でのめり込み、遂に夢の中で善導と遭遇して背中を押され、安元元年(1175)に43歳にして浄土宗を創宗する。

(※1)『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』:浄土三部経の一。釈尊阿弥陀仏とその浄土の荘厳を説いたもの。 

(※2)『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ):仏書。唐僧・善導の著。4巻から成る。『観無量寿経』の注釈書で、本願念仏による浄土往生を説き、法然にも大きな影響を与えた。(※3)玄義(げんぎ):<仏>奥深い教義。幽玄な理。

(※4)嗣書(ししょ):禅宗において師から弟子に伝わった悟りの証明。

(※5)印可(いんか):師僧が弟子の悟りを証明すること。


参考資料:『念仏の聖者 法然』 中井真孝 編  吉川弘文館

     『鎌倉仏教』 田中 久夫 講談社学術文庫