後白河院と寺社勢力(112)遁世僧(33)法然(5)保元の乱と清

  叡山西塔黒谷の慈眼房叡空の庵の法然は、5048巻もの経巻を含む膨大な『一切経』を何度も何度も繰り返して目を通すだでなく、他宗の教義にもことごとく目を通して幅広く仏法教義を深め、師の叡空との問答では鋭さで師をたじたじとさせることも度々であった。

 そして法然が24歳の保元元年(1156)、古代から中世を画する保元の乱が勃発し、これまでは院政を支える影の存在であった武士が一気に政治の表舞台に登場して世間を驚かせた。乱の発端は皇位継承を巡る崇徳上皇後白河天皇の兄弟の対立であったが、そこに摂関家の忠通・頼長兄弟の地位と家督をめぐる争いが絡み、上皇方には藤原頼長源為義源為朝平忠正が、天皇方には藤原忠通源義朝平清盛と、皇室・摂関家、武士いずれもが骨肉の争いを展開してそれ以後長く続く動乱の幕開けとなったのである。

 殊に人々を不安にさせ、無常感を搔き立てたのは、首謀者とはいえ厳罰としても出家に留められるとみなされていた崇徳上皇は讃岐へ配流、藤原頼長は敗死に追詰められ、源義朝は父を、平清盛は叔父を処刑する立場に追い込まれるという例を見ない乱後処理の凄惨さであった。

 そのような情勢の中、法然は師の許しを得て渡海僧・ちょう然(※1)が将来した釈迦如来像を安置する嵯峨の清涼寺で7日間の参籠をするが、そこで法然が眼にしたのは、市女傘の庶民の女、供をつれた被き姿の身分の高い女性、烏帽子に狩衣の公卿などなど、洛中から訪れた貴賎の老若男女が不安に満ちた眼差しでひしと釈迦如来像を見つめながら一心に合掌する姿であった。

   

(清涼寺の参詣者『法然上人絵伝上』より)

 青年期の法然が生きた院政期は仏教の黄金時代であり、皇室並びに摂関家南都北嶺の千僧を招いて頻繁に催す絢爛豪華たる法会、法皇女院天皇の御願による荘厳に満ちた数多の造寺・造仏、華麗な曼荼羅の奉納、贅沢な料紙を使った写経などが盛んに行われたが、それらはあくまでも権力と財力を誇る特権階級だけに開かれた成仏への道であった。


        

(左は鳥羽天皇皇后賀陽院が奉納したとされる扇面法華経冊子の一部(大阪・四天王寺蔵)、右は鳥羽上皇の御願とされる不動明王二童立像(京都・峰定寺蔵)『院政期の絵画』図録より)

 法然が眼にした清涼寺の参詣者の多くは、富も権力もなく、ましてや文字を読むことも書く事も出来ない庶民であり凡夫であった。そして、煩悩する彼らに許される事は、ただただ仏に祈って救いを求めるだけで、成仏への道は開かれていなかった。

 美作の押領使という深窓に育ち、その後に叡山から黒谷に遁世して迎える24歳のその時まで、市井の庶民と触れ合う機会の殆どなかった法然にとって、清涼寺の参詣者のありようは、これまで頭の中だけで描いていた三学非器の法門を具体化させるうえでの大きな機縁になったといえる。

 いずこに三学非器を救済する法門があろうかと、法然は清涼寺参籠を終えたその足で南都の法相宗の大家・蔵俊僧都を訪ね、さらに醍醐寺三論宗の大家・権律師(ごんのりっし)寛雅を訪ねたが、そこでも求める道を得ることが出来ず、再び黒谷に戻った法然は「凡夫を救済する法門」を自ら立宗する他はないと悟るのであった。

(※1)ちょう然:平安中期東大寺の学僧。京都の人。永観1年(983)入宋し、太宗から紫衣と法済大師の号を下賜され、五台山などを巡拝。帰国後、嵯峨に清涼寺を建て、三国伝来(インド→中国→日本)の釈迦像などを将来して安置した。


参考資料:『念仏の聖者 法然』  吉川弘文館