後白河院と寺社勢力(111)遁世僧(32)法然(4)三学非器の法

 15歳で叡山一の碩学皇円の弟子として戒壇院で大乗戒を授けられ、周囲もうらやむ環境で出家した勢至丸(法然の少年時の名)だが、「早く俗を逃れて出家し自らの解脱を求めよ」との父の遺志を守りたい彼とっては望ましいものではなく、16歳になって「名利の望みを断ち静かに仏法を修学するために遁世したい」と皇円に告げている。

 それに対する皇円の「例え隠遁の志があるとしても先ずは60巻を読み終えてからでも遅くはあるまい」との進言になるほどと感じた勢至丸は、明け暮れ『法華玄義』(20巻)・『法華文句(もんご)』(20巻)・『摩訶止観(まかしかん)』(20巻)に目を通し、三年をかけて遂に60巻を読破し終え、「学道を究めてゆくゆくは天台の頂点に」と期待する皇円に別れを告げ、久安6年9月12日18歳の時に叡山西塔黒谷の慈眼房叡空の庵を訪れる。

 晩年の法然はこの頃を振り返って「出離の心ざし至りて深かりしあいだ、諸の教法を信じて、諸の行業を修す。およそ仏教多しといえども、詮ずるところ戒定慧(※1)の三学をば過ぎず・・・・・・・・」と弟子に語っているが、大乗、小乗、顕教密教など様々な仏法を学んでみたものの、法然にとっては大乗の戒定慧・小乗の戒定慧・顕教の戒定慧・密教の戒定慧と、いずれもが、戒律を守り(戒)、心を定め(定)、学問を深めて(慧)悟りに到達せよ、との戒定慧の三学を超えるものではなかった。

 しかも、三学の一つである戒をとりあげても不殺生・不偸盗(ふちゅとう)・不邪淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)の五戒があるが、人間は生きるために植物や動物の生命を食べなくてはならず、これだけでも教学と現実生活との間に大きな溝がある。

 当時代表的な仏教の聖地であった南都北嶺(※2)においても厳禁の獣肉を食する僧もいれば、美しい稚児を寵愛したり妻帯する邪淫の僧、武装して宗間闘争や強訴を繰り返えす僧、里に一家を構えて妻子と住みながら高利貸を営む僧など、およそ教学から程遠い僧侶の俗化が蔓延しており、高貴な僧と美形の稚児との愛念が和歌や文学を彩るテーマとして公然と語られる程であった。


  

(稚児を抱いて寝る僧侶 『春日権現験記絵下』より)


 

(京の大火でいち早く再建にとりかかる富裕な金貸の主人は僧侶 『春日権現験記絵下』より)

 そんな中で、他者はどうあれ自分自身は戒一つ守れないから解脱はとてもおぼつかない。つまり自分は三学を学ぶ器ではないと悟った勢至丸は、自分同様に三学を学ぶ器ではない者に相応しい仏法を求めるために遁世して慈眼房叡空の門を叩き、迎えた叡空は彼の志に「少年にして、早く出離の心を起こせり。真にこれ、法然道理の聖なり」と随喜して「法然源空」の名を授けたのである。

(※1)戒定慧(かいじょうえ):<仏>善を修め悪を防ぐ戒律と精神を統一する禅定と真理を語る智慧。仏教の実践の三大綱要で、三学と称する。

(※2)南都北嶺(なんとほくれい):南都の諸寺と比叡山。特に興福寺延暦寺を指す事もある。


参考文献:『念仏の聖者 法然』中井 真孝 編  吉川弘文館