後白河院と寺社勢力(102)遁世僧(23)大勧進重源(20)結縁

  平安時代後期に造像技法としての寄木造りが考案された事から仏像内に納入空間が生じ、願主や結縁者がそれぞれの願いをこめて願文や様々な品物を奉籠して信仰心を表現することが可能になった。

 平成元年(1987)7月から東大寺南大門仁王尊像吽形の解体修理によって、その躰内から奥書に建仁3年(1203)8月8日付『宝篋印陀羅尼経』とそれに続く「結縁交名」の写しが発見された事は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110919)が、その他にも計22種の納入品が確認されており、当時の人々の結縁への思いがどのようなものであったかを感じるために『国宝南大門仁王尊像修理記念東大展図録』(朝日新聞社)から幾つかを取上げてみたい。

 下図の右側は解体作業で背面第一層を剥いだところだが、8.38メートルの吽形像の高さを考えると相当量の納入空間と思われる。


(1)『宝篋印陀羅尼経』の書写

 『宝篋印陀羅尼経』は平安時代に入唐僧によって請来されたもので、この経典は一切如来の全身舎利の功徳を説いたもので仏舎利と同義語とされ、仏像内や卒塔婆にこの経典を安置すると天災から免れるなど八つの功徳に与れるとされている。文治元年(1185)8月の大仏開眼供養に先立って重源は後白河院から奉加された仏舎利と自らのそれと共に『宝篋印陀羅尼経』を書写して大仏の腹蔵に納めている。

 


(2)結縁交名

 造像に参加する事で仏との縁を深めたいと願う結縁者の名前を書き連ねる事を結縁交名(けちえんきょうみょう)といい、納入経の奥書の形で示す場合と単独に紙片に書き連ねるものとがある。

 吽形像の躰内から発見されたのは『宝篋印陀羅尼経』に続く奥書に書写されたもの(下左図)と単独紙片に書かれたもの(下右図)があり、併せて200人前後の結縁者のうちの140人が自らを阿弥陀仏と称した重源が浄土教に帰依する弟子たちに与えた阿弥号を名乗る「年来の同行衆」であった。


    
    

(3)造立願文

 紙に造像に際しての願意・年月日・願主や仏師の名前などを記したものを造立(ぞうりゅう)願文と呼ぶ。下左図の「類阿弥陀仏願文」は、重源に帰依して浄土教を信仰した「年来の同行衆」が書いたものと見られ、父を始め縁者の後世を願っている。

 また下右図の「あま心如願文」は、始めに三人の縁者が大仏の尊像に拝する事ができるように吽形像に願い、合わせて父母の後世の安穏を願っている。


     


(4)造像記

 当初は願主や結縁者が光背などに刻んでいた造像記も、寄木造りの考案によって直接像内に記したり銘札として別途納入する事が可能となり、吽形像解体作業過程では部材のあちこちに墨書銘記が発見されている。下図は面部第二層裏面に36名程の人名が墨書されたっもので、中央には右大臣源師房左大臣同俊房・源中納言師時・源師任などの名前が見られ村上源氏と重源との強い絆が窺がえる。


 

 以上の吽形像内納入品から見えてくるのは村上源氏などの貴顕は別として、「一紙半銭」の寄進をもって仏菩薩との結縁を願う市井の人々の一途な信仰心と、その市井の人々の後世への安穏の願いを結縁につなげて仁王像造立を成遂げた阿弥号を持つ勧進聖たちの能動的な意志と行動力である。


参考文献は以下の通り。

『国宝南大門仁王尊像修理記念東大展図録』(朝日新聞社

『中世・勧進・結縁・供養 大和路の仏教版画』 編集 町田市立国際版画美術館