後白河院と寺社勢力(105)遁世僧(26)南都(1)世業を厭って

 鎌倉後期の華厳宗の僧で『八宗綱要』『三国仏法伝通縁起』などを著し東大寺戒壇院の長老を務めたた凝然(ぎょうねん)が、師の戒壇院中興の祖・実相房円照(1221〜1277)の生涯を描いた『円照上人行状』には「世業」あるいは「世栄」を厭って遁世した僧侶の姿が見られる。

 本題の主人公円照は3百年以上も連綿と続く東大寺学侶の家柄の出で、父厳覚は東大寺を代表する唱導の大家として際立った弁舌によって知られ、3人の兄弟と1人の姉も全て出家して仏門に仕えていたから、10歳になった彼が剃髪して仏教の基礎的教学書ともいえる倶舎論(※1)から学んで三論(※2)を修め、土佐房良寛と号したのも当然の成り行きであった。

 ところが仁治2年(1241)に21歳で父の死に遭遇した円照は「世業を厭って」遁世し、実相房円照と号して延暦・園城・四天王寺・当麻・高野山長谷寺の霊所で修行したたあと白毫寺に良遍上人を訪ねて、22歳から27歳までそこに留まって法相(※2)を学び、建長3年(1251)には東大寺戒壇院に移住して戒壇院を建て直し、さらに東大寺大勧進を14年間務めて建治3年(1277)に57歳で入滅している。

 その円照を白毫寺に迎えて法相を教えた良遍上人は南都教学の再生に努めた事で知られるが、彼は九条兼実に惜しまれながら遁世した貞慶
http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110706)の弟子覚遍に幼少時から師事し、維摩会、最勝講の講師を歴任して僧綱位まで昇り詰めながら「世業を厭って」39歳で遁世し、生駒竹林寺に蟄居した後に白毫寺に移住したのであった。

 さらにもう一人の円照の師・真空上人(俗姓を藤原、もとの諱(いみな)は定兼)は、碩才として知られた東大寺東南院の定範法印(重源の弟子含阿弥陀仏定範か?http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120208)の門人となり、義解(ぎげ=意義をときあかす)にすぐれて公請(※3)で実績を積み権律師(※4)に昇進して大納言律師と号したが、後にこのような「世栄を厭って」遁世して廻心房真空と号した。 

 ところで、円照・良遍・真空の三人の上人が共に厭った「世業」「世栄」とは、出家して法文(※5)を学び、国家的法会や寺の行事に出席・勤仕することで僧位・僧官の出世の階段を登る生き方を指すものと思われる。



(※1)三論(さんろん):南都六宗のひとつである三論宗のよりどころとする3種の論。竜樹の「中論」「十二門論」と竜樹の弟子・提婆(だいば)の「百論」。

(※2)法相(ほっそう):南都六宗の一つ法相宗の教学で唯識宗とも。奈良の興福寺薬師寺大本山とする。

(※3)公請(くじょう):朝廷から経典の講義・論議などに召される事。

(※4)権律師(ごんのりっし):律師は僧綱の第三位で僧都に次ぐ僧官で正・権の2階に分かれ五位に準じた。

(※5)法文(ほうもん):経・論・釈など、仏法を説いた文章。
 
 
参考文献:『日本の社会史 第6巻 社会的諸集団』 岩波書店

     『鎌倉仏教』 田中久夫著 講談社学術文庫