さて、「世業」を厭った円照(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120218)の遁世後の活動はどのようなものであったか。
彼の弟子で後に東大寺戒壇院長老となった凝然が著した『円照上人行状』では、14年に亘る東大寺大勧進の活動や、正嘉元年(1257)の旱魃における戒壇院の金堂での法花・最勝二経の転読講讃や千手陀羅尼の読誦などで降雨を実現させ、さらに弘長元年(1261)の後嵯峨院の南都行幸に際しては、大風のために延期を余儀なくされるところを自ら奏上して霊感で大風を止めて行幸を実現させた事など円照の際立った験力が記されている。
しかし、何といっても特筆すべきは、僧俗を対象とした講義・説法を通して約200名もの授戒弟子を輩出した事、その顔ぶれが、半数近くは畿内近国出身であったが、残りは北は出羽から南は鎮西・肥後の広い範囲に及んでいた事と彼らの多様なありようである。
そうした多様・多彩な授戒弟子たちを分類すると以下の二つに分けることできる。
1)諸宗を併修する僧たち
・如所房理然:戒壇院で戒律を学んだ後に永平寺で道元の弟子から禅を修得。
・是本房道爾:建長寺の蘭渓道隆の待童(じどう)を勤めて17歳で戒壇院へ。
・律念房勝口:建長寺の蘭渓道隆の門下から高野山で密教を修しそのあとで戒壇院へ。
・本心房澄海:叡山から戒壇院に来て、次に東福寺の円爾から禅を修してさらに菩提山寺で密教を修す。
・仏日房最入:東福寺の円爾から禅を修しその後木幡観音院を経て戒壇院へ。
・観円房証海:東福寺の円爾から禅を実修しその後に戒壇院へ。
・空智房忍空:禅院から泉涌寺に移りその後に戒壇院で円照から授戒。
2)出身地あるいは地方に下向して南都仏教布教に身を投じた僧たち
伊勢の円一房、尾張の良敏法師、讃岐の顕日房道憲、伊予三嶋の禅性房有海たちは本国に戻って寺院を建立して布教活動を行っており、中でも尾張の良敏法師の門人弟子が円照から戒をうけた事は注目される。他にも出身地に戻らずそのまま「東国」から「鎮西」に至る広い範囲に下向してそこで根を張って布教活動に取組んだ僧侶たちもかなりおり、これらの事からも、南部仏教が広い地域に受容されていく様子が窺がえる。
このように東大寺・戒壇院が諸宗交流と南都仏教再生産の「場」でありえたのは、白毫寺の良遍上人から法相(※1)を、東大寺別当を務めた宗性から華厳(※2)を学び「信仰の根本に密教を据え、教学は三論(※3)、実践は戒律(※4)、後世(ごぜ)は極楽浄土で往生を」と諸宗を統一的に総合する体現者としての円照の存在があったからである。
源平争乱を経て武家政権の樹立といった大きな社会変動に加え、度重なる地震・旱魃は死と隣り合わせの日常を人々に強いて、都鄙を問わず数多の仏教に救いを求める人々を生み出したが、そうした人々を掬い上げたのは「世業に従事する」寺僧ではなく二重出家の「遁世僧」であった。
こうして南都は遁世僧によって新たな信仰者を南都仏教に還流させる回路を作り、彼らのエネルギーを取り込むことで自らの活性化を図ったといえる。
(※1)法相(ほっそう):参照(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120218)
(※2)華厳(けごん):奈良東大寺を総本山とする華厳宗の所依の経典。
(※3)三論(さんろん):参照(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120218)。
(※4)戒律(かいりつ):出家者・在家者の守るべき生活規律。「戒」は自発的に規律を守ろうとする心のはたらき、「律」は他律的な規則。
参考文献:『日本の社会史 第6巻 社会的諸集団』 岩波書店
『鎌倉仏教』 田中 久夫 講談社学術文庫