外国と私(5)「ビザ」と「壁」

 「東側」といえばお隣の中国に対するわが国のビザ発給はどうなっているかといえば、外務省は2011年9月1日付で中国人観光客向け査証(ビザ)発給要件を緩和する方針を打ち出しており、それについての同年8月10日・11日付の朝日・毎日・読売・産経の記事からまとめてみると、

 中国人観光客へのビザ発給要件の推移は、2009年7月に「富裕層に限って」滞在15日以内の観光ビザを発給した事に始まり、2010年7月には「富裕層に限って」の要件を「一定の経済力を持ち官公庁や大企業に勤務する中堅幹部以上」に緩和して中間層に拡大し、さらに2011年9月1日付では「官公庁や大企業に勤務する中堅幹部以上」という職業上の括りを外して「一定の経済力を有する者」と変更して引退した人たちも対象に含めたうえに、15日以内と限定していた滞在期間を30日以内に延長するという大幅な緩和策を打ち出している。

 因みに、ここでの「一定の経済力」の目処はおよその年収が10万元(約120万円)とのことだが、入国後に犯罪を起こすことも考慮して年収だけでなく資産やこれまでのビザ申請状況も合わせて審査するとのことであるが、今回外務省が中国人観光客へのビザ発給要件を大幅に緩和したのは、東日本大震災による中国人観光客の激減をなんとか回復させたいためのようだ。

 独断のそしりを受けるかもしれないが、日本を含むいわゆる「西側」諸国の観光客へのビザ発給の要件は、多分に懐の豊かな観光客の落とすお金への期待で匙加減されているように思えるが、かつての「東側」諸国では観光客の落とすお金などは鼻から問題にしていなかったことが、カメラマン田中長徳さんの味のあるエッセイ「屋根裏プラハ」(新潮社)の次の挿話からも窺がえる。

 「ベルリンの壁」崩壊前に著者がウィーンに在住していた頃、欧州漫遊の旅程で暫く滞在していた日本人絵描きの知人が朝ウィーン駅から急行列車でプラハに向かうのを見送り、午後三時ごろ「今頃彼もプラハで宿を見つけてビールでも飲んでいるかな」と家人と話し始めた時に玄関のベルが鳴ってプラハにいるはずの友人が立っていた。

 その友人は国境の検問所でひっかかり、綺麗にひげをそっているパスポートの写真と前夜間に合せに撮ったひげもじゃのビザに貼った写真が同一人物に見てもらえず、この場でひげを剃るかウイーンにひげを剃りに戻るかと審査官に迫られ、国境付近に適当な剃刀も見当たらないので、いわゆる「強制送還」される形で再び列車に乗って戻ってきたという。

 しかし著者はこれなどはまだ楽な方だとさらに筆を進めて、旧東ドイツでは入国だけでなく出国にもビザが必要で煩雑極まりなかったが、それは当時の法律が男性は65歳、女性は60歳まで出国を禁止していたとばっちりが一般旅行者にも及んだためで、もし出国ビザを取得しない場合は永遠に東ドイツに居住しなければならないのかと、苦い冗談を披瀝している。

 これを読んだ私は、1995年9月に「崩壊したベルリンの壁」の前に立った時を思い起こして、旧東ドイツの独裁者は「男65歳、女60歳まで出国禁止」を法律で定めるだけでなく、頑強で長大な壁を構築する事で国そのものを牢獄に仕立て上げたのだと改めて背筋を寒くしたのである。