後白河院と寺社勢力(101)遁世僧(22)大勧進重源(19)善知

 東大寺大仏は聖武天皇の発願で天平勝宝4年(752)に創建されたが、それに先立つ天平12年(740)年、河内国大県郡(おおがたぐん)の庶民による寄進で造立・運営されていた知識寺の大仏を参拝された時「朕も造り奉らん」と決意されたとも伝えられている。

  天平12年は吉備真備の排除を要求して太宰少弐(だざいのしょうに)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が乱を起こした年に当たり、それ以後平城京から長岡京に至る間に遷都を頻々とする状況の中で、疲弊しきった国家と民衆を一つに纏めて安定を取り戻したいとの聖武天皇の思いが東大寺大仏創建に具現したのである。

 知識寺の「知識」とは善知識あるいは善智識の事で「善き仲間」を意味し、仏道の世界では「仏道修行の善き先達」と「造寺造立の寄進者、協力者」を指し、まさに、ここに聖武天皇が「王法仏法」の要をなす官寺・大寺院のトップではなく、国家統制を乱すものとして当時は弾圧の対象であった民間聖・行基を敢えて大勧進に起用した所以である。

 聖武天皇の時代の寺院は国家財政によって賄われていたから中央の大寺院は全て官営であり、僧侶は国家公務員の身分を保証されていたから人数も厳しく制限されていた。そのため出家・得度は官許制で私度(官許を得ずに秘かに得度して僧尼になること)は厳しく罰せられていただけでなく、寺院の外て民衆を相手に布教することも禁止されていた。

 そんななかで行基は、一度は官寺の僧であった身分を捨てて民間聖として庶民の中で仏法を説きながら、仏道への結縁を願う彼らの浄財を集めて国の資金に頼ることなく架橋・道路整備・築堤・造池などの土木工事を推し進めて多くの庶民から慕われていた事から「民を惑わす者」として国家から弾圧されていたのであった。

 しかるに聖武天皇が発願する東大寺大仏創建は、財政では賄い切れない資金と従来にない技術力を必要とするため、知識寺のように幅広い善知識からの浄財と長年の勧進による土木事業で培った高い技術力を有する職人を起用する力を併せ持った行基に託す他はなかったのである。

 後白河院が養和元年(1181)に「知識の詔」を掲げ、「仏道修行の善き先達」として重源を東大寺大勧進に勅命し、知識としての「像寺造立の寄進者、協力者」から集めた浄財で平氏焼討により灰燼に帰した東大寺復興を呼びかけたのは正に聖武天皇を倣っての事であった。

 方や行基を自らの姿に重ねる重源にとっても、後白河院から東大寺大勧進を拝命した時点で、この大事業に権力者の支援を最大限に活用する必要を感じながらも、彼らに依存すべきではない事を承知しており、時をおかず善智識の組織化と復興事業の拠点造りに着手している。

 東大寺大仏創建における聖武天皇東大寺復興における後白河院、そして重源に支援を惜しまなかった源頼朝の行いは、国家財政が破綻した時の事業は官の手だけでは不可能であるが、疲弊した民の心を一つに纏めて盛り上げるのは為政者の役割である事を見事に示している。

参考文献 : 『国宝南大門仁王尊像修理記念 東大寺展』  朝日新聞社