後白河院と寺社勢力(103)遁世僧(24)大勧進重源(21)日宋

 東大寺復興事業で大勧進重源に重用された宋人は大仏鋳造や大仏殿再築で中核を担った陳和卿だけではなかった。建久7年(1196)には大仏殿内の石像菩薩像や四天王像、および中門の石獅子の彫像では宋人石工(いしく)伊行末(いぎょうまつ)が手腕を発揮している。その他にも伊行末は四面回廊・南北中門・東西楽門を手がけ、現存するものとしては、東大寺法華堂(三月堂)前石燈籠や奈良般若寺の十三重塔や笠塔婆が挙げられる。

 国家プロジェクトであった東大寺復興事業の「キモ」の部分に国交関係のない外国人技術者を起用した当時の政権の開放性に驚きを感じるが、衰運期にあった宋朝国威発揚を狙って入貢を促す国書を盛んに周辺国へ送っていたことから、宋商人が頻繁に博多に入港して日宋間の物・人の往来は活発になり、こうした状況から宋人技術者の起用には抵抗がなかったのかもしれない。


(平清盛の発願による宋風が色濃く反映された平家納経の一部、『院政期の絵画』図録より)

 それでは当時の日宋間の物と人の往来状況はどのようなものであったか。平清盛日宋貿易については既に述べたが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110209)、当初朝廷が先買権を行使して貿易管理を行っていた頃の日宋貿易の中心地は大宰府鴻臚館であったが、それが廃止された後は博多が中心になり宋商人が担い手となっていた。

 その当時日本が宋から輸入していたのは陶磁器・絹織物・木綿・書籍・経典などであり、特に書籍・経典の需要は高かった。何故なら、当時の日本の書籍の大部分は写本であったが、それにひきかえ中国の印刷技術の水準は高く、藤原信西藤原頼長を始めとする碩学を自認する知識人や僧侶の間で中国から輸入された印刷本の学術書や経典は珍重されていたのである。

 それに対してわが日本からの輸出品の上位に金が挙がっている事は注目に値する。奥州地方で採掘された金が大量に宋に持ち込まれており、今日の金価格の高騰を思うと日本人として何とも複雑だが、やがてフビライに滅ぼされる状況にあった宋の国情とからめると「有事の金」は古今の理だと思わざるを得ない。

 次に注目すべき輸出品は硫黄や日本刀を含む刀剣類といった武器製品であった。既に北宋時代に日本で入手した日本刀を大陸で売って大儲けをした福建人の詩ができていたようで、この事は当時の大陸において日本製武器の需要が高かった事を裏付けている。 
 その一方で寛治6年(1092)に帥中納言(そちのちゅうなごん)藤原伊房(これふさ)が契丹(※1)に武器を売って暴利を得て罰せられ、平清盛は宋帝に太刀を贈って非難されていたところを見ると、朝廷が正式に武器輸出を認めたわけではなかったようだ。

 さらに、漆器・扇・屏風など日本の美術工芸品が輸出品の上位にランクされているところを見ると、今で言うクール・ジャパンの様相は既にこの頃から生まれていたといっても良い。特に扇は鎌倉時代から室町時代にかけて金ほどではないが外貨稼ぎの中心的な存在であった。

 次に日宋間の人の往来に視点を移すと「入唐求法」で大陸を往来した僧達が注目される。

 永観元年(983)に弟子達と宋商陳仁爽(ちんじそう)の船で入宋したちょう然(※2)を始め、
栄西http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110131)、
道元http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110524)、
そして重源を含む数多の僧は、遣唐使の廃止以降は商売気と深い信仰心を併せ持った宋商人の船で盛んに大陸に渡ったのであった。


   

(宋商船で唐に向かう修学僧を描いた『華厳宗祖師絵伝』(『院政期の絵画』図録より)


(※1)契丹(きったん):東部モンゴリアに5世紀以来現れた遊牧民族。10世紀始め耶律阿保機が諸部族を統合し916年皇帝となり遼を建国。

(※2)ちょう然(ちょうねん):平安中期の東大寺僧。983年に入宋して五台山などの霊場を巡り、5年後に『一切経』『釈迦像』『16羅漢像』などを持ち帰った。それ以後彼の影響で日本に霊場巡礼の風習が起こったとされる。

 
参考文献は以下の通り。

『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

『日本の歴史6 武士の登場』 竹内理三著 中公文庫

『物語 京都の歴史』脇田修 脇田晴子 著 中公新書