ところで吉田兼好は『徒然草』第146段で平家の護寺僧だった明雲について下記のように極めて示唆に富む逸話を残している。
“明雲座主、相者にあひ給ひて、「おのれ、もし兵仗の難やある」と尋ね給ひければ、相人、「まことにその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、かりにもかく思(おぼ)し寄りて尋ね給ふ、これ既に、その危(あや)ぶみのきざしなり」と申しけり。はたして、矢にあたりて失せ給ひにけり”
明雲から「ひょっとして自分には武器で難儀を受けることがあろうか」と聞かれた人相見が「ある」と答えたところ、「どんな相か」と問い返されて「そんな心配もないはずの立場なのに、その懸念をもっていることこそその前兆です」と人相見が答え、実際その通り矢に当たって死んでいる。
さて、その明雲大僧正は後白河院に勝るとも劣らない毀誉褒貶の激しい人物のようで、彼に対する相反する評価を紹介すると、まず、べた褒めの『平家物語』巻第二から、
“先座主明雲大僧正は、顕密兼学して、浄戒持律のうへ、大乗妙経を公家(帝)にさづけたてまつり、菩薩浄戒を法皇に保たせたてまつる”&“この明雲と申すは、久我(こが)の大納言顕通の卿の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧におはしければ”と褒めちぎっている。
他方、摂関家の出で天台座主を4度勤めた慈円は、明雲が快修と戦って多くの僧侶を殺戮に追いやった末に天台座主になった経緯を指して「すべて積悪多かる人なり」と『愚管抄』で非難している。
これは仁安元年(1166)9月から翌年にかけて勃発した天台座主の人事を巡る争いを指し、東塔・西塔・横川の大衆を巻き込んだ「山上合戦」の様相を呈したため、後白河院が調停に乗り出したが収拾できず、多くの死傷者と施設の毀損を生じたために54世天台座主・快修が身を引き、明雲が55世天台座主に就任して一時的な決着をみた。
慈円はこの前年の永万元年(1165)に11歳(数え年)で叡山に登って明雲の門下として得度をしており、厳かに自分に天台の戒を授けた師が、事もあろうに大殺戮の指揮官に変貌した有様は終生忘れがたい印象を残したに違いない。
そう言えば、明雲は55世、57世と2度天台座主を勤めたが、57世座主就任の折にも東塔・西塔・横川の大衆を巻き込んだ山上合戦を繰広げており、得度した翌年の仁安元年に勃発した山上合戦のために、荒廃しきって人の姿もまばらな叡山に留まり、ひたすら難行に打ち込む青少年時代を過ごさざるを得なかった慈円にとって、到底平和裏に天台座主の座を獲得したとは云い難い師の明雲を「積悪の人」評するのは無理もない。
さてその「はたして、矢にあたりて失せ給ひにけり」と徒然草が述べた明雲の最後はどのようなものであったかを『平家物語 巻8 法住寺合戦』で引用すると、
“天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあいだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首取られ給ふ”と記されている。
この時明雲は僧兵を率いて後白河院の居所である法住寺殿を警護させ、自らはかつての仇敵・後白河院と鳩首を揃えて木曾義仲の追出し作戦を練っていたところであったが、追い詰められた木曾義仲軍に急襲され、火の手が上がった御所から後白河院は命からがら救出されたが、明雲は逃げ切れずに馬上から射落とされ首まで切られたという。
余談ながら、慈円が叡山に登った頃に前後して若き栄西も叡山に登っており、既に20数年前に叡山に愛想をつかして山を下りて遁世した法然をも併せて眺めるに、次々に優れた若者を惹きつける延暦寺という脈々と流れる存在の大きさを思わずにはいられない。
参考文献は以下の通り
『新潮日本古典集成 徒然草』 新潮社
『新潮日本古典集成 平家物語 中 下』 新潮社