後白河院と寺社勢力(131)僧兵(4)円仁派の良源

 延暦寺では開祖最澄→円仁系と最澄の通訳として遣唐使に同行し最澄の没後に第1世天台座主と称した義真→円珍系の二つの法門が10世紀半ばまで対立が表面化することなく潜伏していたが、第5世の円珍以降は第13世の尊意に至る70間を一人を除いて円珍派が天台座主を占めた事は前回述べた。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121028

 しかるに康保3年(966)に第18世天台座主となり、比叡山の綱紀粛正を狙って僧侶の武装を禁じる「26箇条起請」を定めた良源(慈恵大師)は円仁派であった。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121018

 12歳で叡山に登り西塔で授戒した良源は、26歳で興福寺維摩会で南都の義昭を論破し、さらに応和3年(963)の清涼殿の法華会では法相宗を論破するほどの傑出した学僧であったが、寺院運営でも際立った力量を発揮し、承平5年(935)および康保2年(965)の大火で灰燼に帰した根本中堂など多くの伽藍・堂宇・僧房を再建し、横川に楞厳三昧院を造立して横川を独立させ3塔(東塔・西塔・横川)一山(惣寺・満寺)となる延暦寺の新たな体制を確立するなかで、主要な地位を長い間不遇をかこっていた円仁派の門徒で固め彼らを勢いづかせたのである。

 さらに荘園などの寺領の拡大を始め、興福寺末社であった祇園社延暦寺末社編入するなどして経済基盤と影響力を拡大して延暦寺の繁栄を築き「叡山中興の祖」と呼ばれるのだが、これらの事業は時の権勢者で摂関家の基盤を築いた右大臣・藤原師輔の支援を得て成し遂げられたものであった。


(上図は藤原師輔から寄贈された横川の楞厳三昧院『天狗草紙』より)

 良源の本領は政治面で発揮されたのであり、その中でも最も注目すべきは弟子として受け入れていた藤原師輔と雅子内親王の間に生まれた尋禅を後継の19世天台座主に据えた事であった。


参考文献 『寺社勢力〜もうひとつの中世社会』 黒田俊雄著 岩波新書