永保元年(1081)
3月5日 興福寺僧徒数千人が、多武峰(とうのみね)を襲撃し付近の民家300余区を焼く。多武峰の僧は大織冠を負って逃走。
3月25日 多武峰僧徒数百人が入京して興福寺僧徒の襲撃を嗷訴
天仁元年(1108)
9月10日 興福寺の僧徒が多武峰の堂舎・僧房を焼く。
藤原氏祖とされる多武峰は興福寺支配の大和の国にありながら何故か延暦寺の末寺であったことから何かと興福寺にとって目障りな存在であったようだ。
天仁2年(1109)
6月8日 延暦寺僧徒の訴えにより感神院祇園社神人を辱めた清水寺別当定深が流罪。
さて、次に挙げるのは「永久の嗷訴」と呼ばれ白河院政を震撼させた南都北嶺の抗争である。
永久元年(1113)
閏3月20日 延暦寺で出家して清水寺別当に補された円勢の罷免を要求して興福寺の僧徒5千人が春日社の神木を奉じて入京して嗷訴。
同月22日 朝廷は興福寺の要求を受け入れて円勢を罷免し、興福寺権別当永縁を清水寺別当に補任。
同月29日 これに怒った延暦寺僧徒2千人が清水寺堂舎を破壊すると共に、祇園社、北野社並びに京極寺の神輿を奉じて興福寺僧徒が感神院祇園社神人を辱めたことを法皇御所に至り訴える。
これに対して白河法皇は検非違使源光国・源為義・平忠盛を派遣すると共に天台座主仁豪を慰撫。
4月5日 京中で興福寺・延暦寺両寺の僧徒が対峙する。
4月10日 朝廷は両寺に僧徒が兵杖を帯びて上京することを禁止する宣旨を降ろす。
4月29日 興福寺僧徒が延暦寺攻撃を企図。朝廷は平忠盛、源重時らを討伐。検非違使源光国らを西坂元における延暦寺僧徒制止に派遣。
9月30日 延暦寺僧徒数千人が京極寺に集合して嗷訴を図る。これに対して朝廷は検非違使並びに平正盛、平忠盛、源重時らを宇治に派遣して興福寺僧徒の入洛を制止する一方で源光国を派遣して蜂起した延暦寺僧徒を解散させる。
しかし、南都北嶺の対立は後白河院の時代に益々激化して下記のように法皇自らが仲裁に乗り出す事もしばしばであった。
承安元年(1173)
5月21日 延暦寺僧徒が蜂起して北国の興福寺荘園を押領。
6月25日 上記の報復として興福寺僧徒が大挙して多武峰を襲撃し堂舎を悉く焼失させる。
7月12日 延暦寺僧徒が報復を企てるが朝廷が制止。
10月9日 朝廷は6月の多武峰の襲撃・放火首謀者として興福寺僧覚興を播磨に配流。
11月3日 南都の僧徒が覚興の宥免および延暦寺座主の配流を訴え春日社の神輿を奉じて木津に至るが朝廷は宇治に兵を派遣してこれを制止すると共に後白河院が両寺の仲裁にあたる。
その後は共に対立の深まった平氏に立ち向かうために延暦寺と興福寺は一時休戦体制に入るが、平氏の方はこの頃から南都攻めを強めていく。
参考文献は『平安僧兵奮戦記』 川村一彦著 総合出版社「歴研」