興福寺支配下の大和国では、延暦寺末寺の多武峰が何かと興福寺の襲撃を受ける一方で、延暦寺の影響下にあった京においては、興福寺末寺の清水寺が別当という人事に延暦寺の利害が絡んで僧徒が蜂起すると、「永久の嗷訴」に見られるように本寺の興福寺が乗り出して、京を舞台に合戦さながらの抗争を展開して朝廷を右往左往さたことは先回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121218)。
さらに、かつては興福寺末寺でありながら良源の時代に武力で奪取して延暦寺末寺となった感神院祇園社が清水寺が隣接することから、頻々と起こす境界争いに延暦寺と興福寺の僧徒が乗り出して抗争を繰り広げるのも朝廷の頭痛の種であった。
とりわけ朝廷のおひざ元である京では、疫病祓いの祇園会を司る感神院祇園社と、政敵の追い落としで失脚した菅原道真の怨霊を鎮める北野社という二大御霊信仰の象徴だけではなく、京極寺、東山の清閑寺、洛中の六角堂など有力な寺社を延暦寺が末寺として支配していた。
そして、延暦寺の僧徒が日吉社の神輿を奉じて大挙して入洛して嗷訴する時には、御霊信仰の象徴である祇園社と北野社の神輿がお供をし、時には京極寺にそれらの神輿が安置されることもあり、このようなデモンストレーションが、神輿を「神の乗物」と畏怖する公卿に対して圧倒的な心理効果を発揮したのである。
(上図は祇園御霊会の神輿『年中行事絵巻』より)