後白河院と寺社勢力(119)遁世僧(40)法然(12)信西の息子

 43歳の法然が教学上の浄土宗の立宗を志して師・叡空と黒谷に別れを告げ、西山広谷に訪ねた念仏聖人・遊蓮房円照は平治の乱で獄門に晒されたた藤原通憲(みちのり)信西の息子でであった。円照の俗名は是憲(これのり)、平治の乱を契機に21歳で出家して法華経を修したが、晩年は一冊の経も仏書も持たず、極楽曼荼羅を自分の首にかけひたすら念仏を称えたとされ、法然が身を寄せた2年後の治承元年(1177)に法然に看取られながら39歳の生涯を終えている。 

 保元の乱平治の乱の時の人であった藤原信西の遺児と法然との繋がりはなかなか興味深いものがあるので、ここで円照の他にも法然と浅からぬ因縁をもつた信西の息子に触れてみたい。

 先ず明遍であるが、彼は東大寺三論宗を修めながら50代半ばで高野山蓮華谷に遁世して空阿弥陀仏と称したが、法然の高弟信空の弟子信瑞(しんずい)が著した『明義進行集(みょうぎしんぎょうしゅう)』では、明遍善光寺参詣の途次に東山の法然を訪ねて念仏往生について問答を交わしたと記されているが、明遍自身も「もし極楽に往生できない場合は本願にあい念仏だけ称えるようなものに生まれ変わりたい」との言葉を残し、「三論の教学が邪魔になる」と語ったとも伝えられている。

 次に藤原摂関家の氏寺・興福寺での栄達を期待されながら春日明神のお告げにより笠置寺に遁世すると告げて九条兼実を嘆息させた貞慶がいる(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110706 http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110715)。

 当時の仏教界の俗化を憂えて遁世した貞慶は戒律復興を目指して活動したが、元久2年(1205)の専修念仏停止興福寺訴状で中心的な役割を果たし、「末世の沙門(※)が無戒・破戒であることは自他共に許すところである。専修の中にもまた持戒の人がいないわけではない」と法然が一貫した持戒者であることを認めながらも、貞慶自身は末世の沙門が無戒・破戒である事を認めながらもそれを良しとせず何とか戒律を取り戻そうととしているのに対し、法然の立てた専修念仏が無戒・破戒であることそれ自体を丸ごと受け止めたことが許せなかったようだ。

 代々学者の家に生まれ「日本第一大学生(だいがくしょう)、和漢ノ才ニ富テ」と『愚管抄』で慈円が評価した左大臣藤原頼長さえ度々指導を受けたとされる藤原信西であるが、生まれの家格が低かった為に鳥羽上皇から重用されながらも少納言の地位までしか昇進できなかった。

 しかし、彼の妻・紀伊局が雅仁親王(後の後白河)の乳母であった事から、親王の即位の機会を虎視眈々と窺い、即位に程遠い親王は仏門に入るのが支配的であった当時の風潮に逆らい、雅仁親王が29歳になるまで出家を留めさせて部屋住みに置き、運よく後白河院天皇誕生の機会を捉えて急速に政治の表舞台で辣腕を発揮し、天皇退位においても摂関家を差し置いて美福門院と示し合わせて重要な役割を果たしたことは既に述べたとおりである。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090303

 ところで唱導(説教)において美声と説得力で名を高めた澄憲(ちょうけん)も信西の息子であるが、信西自身は平治の乱によって非業の死を遂げたが、才知優れた彼の息子達は彼の死後も仏教界のみならず幅広い分野で活躍した。


(※)沙門(しゃもん):<仏>出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。 


参考文献:『鎌倉仏教』 田中久夫著 講談社学術文庫

     『後白河上皇』 安田元久 日本歴史学会編集 吉川弘文館