後白河院と寺社勢力(134)僧兵(7)南都北嶺(1)額打論

  長期に亘り激しく対立した南都(興福寺)と北嶺(延暦寺)の抗争の中で最も象徴的な出来事は、永万年(1165)8月7日の二条天皇の葬儀の墓所で、寺号の額をかける順序を巡って興福寺延暦寺の僧徒が争った事件であろう。

このありさまを『平家物語』から引用すると、

 天皇の葬儀の夜は奈良(南京:なんきょう)と京都(北京:ほっきょう)の大衆がことごとく参集して、御墓所のまわりに各々の寺号を記した額を掛ける慣わしとなっており、順序も先ず聖武天皇御願寺である東大寺が額をかけ、その隣に南京側の藤原不比等建立とされる摂関家氏寺の興福寺が続き、北京側は興福寺と向かう形で延暦寺が額をかけ、隣に天武天皇御願寺円珍の創建とされる園城寺の額が続く事になっていた。

 しかるに、この時は、延暦寺の大衆が前例を破り東大寺の次、興福寺の前に額を掛け始めた事から興福寺の大衆が僉議しているあいだに、黒糸縅の腹巻に白柄の長刀の鞘外しのいでたちの観音房と萌黄縅の腹巻に黒漆の大太刀の勢至房という、悪僧として名高い二人の興福寺の堂衆(※)がいきなり延暦寺の額を切り落として散々に打ち壊して、

「うれしや、鳴るは滝の水、日は照れどもたえず、とうたへや」

と、囃して南都の大衆の中に入っていったものだから、葬儀に参列していた面々は帝の葬儀の夜に何とも浅ましいことかと嘆きながらも肝を冷やして霧散し、延暦寺大衆はとみると、腹に一物あるのか、その場は静かに退却した。

 そして、翌々日の8月9日、延暦寺の僧徒は京都の興福寺末社清水寺に押寄せて仏閣・僧房など一棟残らず焼討にして意気揚々と叡山に引き上げたのであった。

 これに怒った興福寺の僧徒は延暦寺の焼討を図って蜂起したものの、朝廷がこれを制止して焼討の兆本の延暦寺の3人の悪僧を流罪としたが、腹の治まらない興福寺の僧徒は10月の末に春日社の神木を奉じて天台座主延暦寺のトップ)俊円の流罪を要求して嗷訴し、翌日朝廷がこの要求を受け入れて俊円を流罪にしたことで、興福寺の僧徒は雄叫びとともに奈良に戻っていった。

(※)堂衆(どうしゅ):寺内外の雑役に従事する下級僧であるが当時の僧兵の中心的な存在であった。


参考文献:『平家物語 上』 新潮日本古典集成 新潮社