後白河院と寺社勢力(133)僧兵(6)山門・寺門と院政後期

  山門・寺門間の抗争に対して摂関期末の藤原頼通の道理を前に押し出した姿勢を先回に述べたが、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121118)翻って院政後期の後白河院はどのように対処したのであろうか。

 応保2年(1162)閏2月に朝廷が園城寺長吏・覚忠を天台座主に補任したことに延暦寺の僧徒が猛反発して蜂起した時には、それに屈した朝廷が延暦寺僧の重愉を天台座主に据えることで決着した。

 一度は天台座主になりながらこの騒動で瞬く間に延暦寺の僧徒から追い払われた覚忠は、摂関家藤原忠通の息子で九条兼実慈円とは腹違いの兄弟にあたり、嘉応元年(1169)に後白河院が出家して法皇となった時には戒師を勤めている。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110817

 また、叡山を降りて園城寺で寺門派として旗揚げして以来円珍派の悲願となった園城寺戒壇建立は、170年を経ても相変わらず山門・寺門抗争を繰り返す種として下記にみられるように後白河院を悩ませていた。

 長寛元年(1163)3月3日に延暦寺園城寺の修行僧の受戒を延暦寺戒壇でさせることを朝廷に申し入れると、5月22日に朝廷は園城寺に対して延暦寺戒壇での受戒を命じている。

 この延暦寺寄りの朝廷の命に園城寺側が反抗したのか、6月には延暦寺の僧徒が園城寺を攻めて金堂を焼亡させた一方で、園城寺側の僧徒も激しく攻撃をして抗争が長引き、翌年の長寛2年4月には後白河院が叡山に7日間も逗留して調停に乗り出す事態となり、当座は何とか収まったものの10月には延暦寺の僧徒たちが騒動の首謀者を罰した天台座主・快修を追放しているのである。

 ところがこの騒動は山門・寺門だけでは収まらず、当時は園城寺の修行僧が受戒の儀式を東大寺興福寺戒壇院で行っていたことから、延暦寺一辺倒の朝廷の決定に興福寺の僧徒が反発して、延暦寺戒壇での園城寺僧の受戒を禁止し、その上で延暦寺興福寺の末寺にするよう朝廷に申し入れて延暦寺との抗争に発展し、揚句に興福寺僧徒は延暦寺との争いを制止した別当興福寺トップ)・恵信を追放している。

 山門・寺門の抗争はこれだけでは収まらず、治承2年(1178)1月20日には後白河院園城寺での灌頂伝法受戒を阻止するために延暦寺の僧徒が園城寺焼討を図り、朝廷は使者を派遣して協議するとともに後白河院園城寺御幸を停止している。 

 これらの動きをみると、専制君主後白河院はひたすら山門・寺門に翻弄され、時には延暦寺の言いなりになっているように見えるが、南都北嶺の反平氏包囲網に脅威を抱いた平清盛が治承4年(1180)に安徳天皇後白河院高倉上皇を奉じて福原遷都を強行した時には、それに先立つ3月に延暦寺園城寺の僧徒が後白河院高倉上皇を擁して京都から退出するとの情報が流れて、狼狽した清盛が武士に命じて両上皇御所の警護を固めさせる一幕もあった。

 さらに寿永2年(1183)の平家西走の際には、平宗盛が自分を都落ちの道連れにすることを察知した後白河院が、7月24日の深夜に密かに延暦寺に逐電して近臣を大慌てさせながらも、翌日の7月25日には叡山山頂から平家一門が安徳天皇建礼門院を奉じて西海に向かう様子を見届け、7月28日に入京した源義仲・行家に平家追討宣旨を下すところまで漕ぎ着けている。

 こうしてみると、後白河院の密かな叡山逐電はもとより、木曽義仲の入京自体が不入権(※)を伴って近江国を領有する山門・寺門の同意がなければ実現不可能であり、一たび、王権が危機に晒されると後白河院と山門・寺門は共同歩調をとるのである。

(※)不入権(ふにゅうけん):国司や守護が検田・租税徴収・検断などのために派遣した使いを荘園に立ち入らせない権利。なお、ここでの検断とは、中世の警察権・刑事裁判権およびそれを行使することを意味する。


参考文献は以下の通り。

『平安僧兵奮戦記』 川村一彦著 総合出版社「歴研」

『日本の中世寺院』 伊藤正敏 吉川弘文館