後白河院と寺社勢力(120)遁世僧(41)法然(13)法皇と入道

 「賀茂川の水、双六の賽、山法師」は希代の専制君主白河法皇を嘆けかせた三不如意としてつとに有名だが、ここでの山法師とは延暦寺の僧兵である。方や、摂関家藤原氏の氏寺としての権勢を背景に、いかなる非理非道も押し通して氏の長者・藤原道長すら「いみじき非道の事も、山階寺(※1)にかかりぬれば又ともかくも人もの言わず」と嘆かせ、無理を押し通す事を山階道理『大鏡』(※2)と天下に知らしめた興福寺の僧兵、院政期の統治者は常に神体そのものとされる神輿を振りかざして強訴を繰り返す南都(興福寺)北嶺(延暦寺)対策に多大なエネルギーを費やしてきた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100508)。

 その過程で法皇平氏を、摂関家は源氏を僧兵対策の傭兵として雇い、彼らを僧兵の矢面に立たせることで何とか切り抜けてきたのであるが、いまなお一部の歴史学者や歴史好きの間で交わされる「僧兵の発生が先か、武士の発生が先か」論争において、私は「僧兵が先」論に傾いてしまう。

 そんな状況下で即位した後白河天皇が直後に着手した「保元新制」のキモが南都北嶺の僧兵・神人対策であったことからも窺がえるように(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091101)、上皇法皇としての後白河院政の大部分は強訴ならびに宗派間抗争や派閥抗争を激しく展開する南都北嶺対策に充てられる事になる。

とはいえ、「この法皇は男にてをはしましし時も、袈裟たてまつりて護摩などさへをこなはせ給ひて、御出家の後はいよいよ御行にてのみありにけり」と慈円が『愚管抄』で描いたように、後白河は即位の前から袈裟衣を着て朝な夕なに念仏の行を怠らなかっただけでなく、美貌の姉の上西門院と一緒に唱導を唱えて唱導の名手としても名も馳せ、43歳の嘉応元年(1169)6月17日には園城寺長吏覚忠より戒を受けて出家して法名を行真(ぎょうしん)と号して法皇(※3)となるが、翌年4月20日には東大寺で東寺長者権僧正禎喜より受戒し、この時催された大規模な儀式には平清盛も列席している。

 そして安元2年(1176)には、3月に50歳の御賀を盛大に催した翌月の4月に延暦寺において天台座主・明雲から天台の戒を受けているが、これは法然が浄土宗の立宗を志して師・叡空と叡山の黒谷に別れを告げて西山広谷の念仏聖人・遊蓮房円照を訪れた翌年のことであった。

 一説によると、後白河院は更なる仏行を深めようと園城寺の僧正から秘密灌頂をうけようとして延暦寺から妨げられたとあるが、33回を重ねる常軌を逸した熊野行幸も含め、事ほど左様に後白河院の信仰心は歴代の法皇には見られないほど深かったのである。

 他方で、南都北嶺対策の矢面に立つ傭兵として白河・鳥羽両法皇から重用された事を踏み台に一族の栄達を目指す清盛としても、南都北嶺の僧兵の手強さは身に染みるものがあり、自らの病を契機に仁安3年(1168)2月に延暦寺天台座主・明雲を導師に出家して法名は浄海(じょうかい)、これ以後入道前太政大臣、あるいは入道相国(しょうこく:太政大臣唐名)と呼ばれ、平氏の護持僧の立場を明確にした明雲と持ちつ持たれつの関係を維持しながら共に束の間の繁栄を謳歌することになる。

(※1)山階寺(やましなでら):興福寺の初名

(※2)大鏡(おおかがみ):歴史物語。3巻本、6巻本、8巻本があるが白河院政期に成立したとされるが著者不詳。文徳天皇から後一条天皇まで14代176年間の歴史を紀伝体にして藤原道長の権勢叙述している。

(※3)法皇(ほうおう):仏門に入った太政天皇


参考文献 『後白河法皇』 安田元久・日本歴史学会編集 吉川弘文館