後白河院と寺社勢力(125)遁世僧(46)法然(19)平重盛の孫

  『平家物語』は、平家興隆の礎となった平正盛から数えて忠盛→清盛→重盛→維盛に継ぐ嫡孫・六代の鎌倉幕府による処刑をもって「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と物語を終わらせている。

ところで話は飛ぶが、建暦2年(1212)正月23日、余命幾ばくもない病床の法然に、念仏の要諦をしたためた『一枚起請文』を懇願して授けられた勢観房源智は、嫡流ではないが六代と同じく平重盛の孫であった。そして法然はその二日後に80歳の生涯を終えている。

 平重盛の5男であった源智の父・備中守師盛は、元暦元年(1184)の2月に一の谷の合戦で討死し、乳飲み子の源智を抱えた母は苛烈を窮めた平孫狩りを何とか切り抜けて、建久6年(1195)に13歳のわが子を法然に託したのである。

 法然は当初、源智を叡山天台座主慈円に預けそこで出家・授戒をさせたが、反平氏・反明雲の気運に覆われた叡山は源智の修行の場に相応しくなかったようで、再び法然の室に戻された源智は法然が入寂するまでの18年間を念仏宗の訓戒を受け、円頓戒を授けられて門弟として過ごしている。

 この、平重盛の孫の源智が、叡山衆徒によって破戒されて荒廃していた法然の遺骸を納めていた大谷廟堂の復興許可を朝廷から得て、仏殿、御影堂、総門を造営し、法然上人を開山として知恩院大谷寺を創設し、事実上の創設者であった事は、平氏あるいは平家一族の通説とは異なった側面を照らしてる。
http://www.chion-in.or.jp/01_honen/hon_chio.html

 法然上人入寂後の勢観房源智は、上人が浄土宗を開祖した頃に止宿し、「賀茂の河原屋」と呼ばれていた賀茂神社の神宮寺を知恩寺と名付けてそこに移り、日々念仏を行とする隠遁生活の傍ら『選択集要決1巻』、『広義隋決集6巻』、『浄土随聞記1巻』等を著し、暦仁元年(1238)12月12日、知恩寺(功徳院)の廊で北枕で西に顔を向けて横臥したまま念仏を2百余遍唱えて56歳の生涯を終えた。


(勢観房源智の入寂の場面『法然上人絵伝 下』より)

 
参考文献は下記の通り

『平家後抄 下・・・落日後の平家』 角田文衛  講談社学術文庫

法然 選択本願念仏集』 石上善應 ちくま学芸文庫