後白河院と寺社勢力(121)遁世僧(42)法然(14)政僧・明雲

共に天台座主明雲から戒を授けられながら、後白河院平清盛の明雲との関係は対照的であった。何しろ後白河院の近臣と延暦寺の衆徒は事あるごとに衝突し、その度に衆徒は産土神(※1)日吉社の神輿をかざして叡山から大挙して入洛し、後白河院に近臣の処罰を訴えていたのだ。

 嘉応元年(1169)には院の寵臣藤原成親が知行する尾張国目代が初任検注(※2)の際に日吉社の神人を暴行したとして、成親の流罪を求めて天台座主明雲や僧綱など延暦寺の幹部を先頭に衆徒と神人が日吉社の神輿を掲げて大挙して入京した。

 延暦寺衆徒らは警護を固めて待機していた院御所ではなく、8歳(数え年)で即位したばかりの高倉天皇の座所である内裏に押しかけ、幼帝に訴状を渡した挙句に神輿を放置して引き上げたため、神輿の祟りを恐れる公卿や強訴排除による内裏での不測の事態を憂慮する平重盛の意見から、院御所議定は延暦寺の要求を受け入れ成親の備中流罪を決定したのであった。

 ところが、この決定に納得しない後白河院は処分を覆して成親を復帰させ、天台座主明雲の天皇護持僧剥奪、院御所議定で采配を振るった使別当中納言平時忠の解官・配流を決定したのだが、今度は、平時忠に対する不当な処分に怒った平清盛が福原から入京して六波羅邸に武士を集めて後白河院に無言の圧力をかけたため、院も時忠の召還を決め、配流こそは免れたものの藤原成親の解官を認めざるを得なかった。

 この事件の前年に明雲を導師に出家して浄海の法名を持つ入道相国清盛は、寺社強訴から内裏・院御所を護衛すべき本来の役割を放棄して、あろうことか、主君である後白河院に立ち向かう姿勢を見せたのである。これを機に、清盛は天台座主・明雲ならびに延暦寺の衆徒との関係を深めてゆくが、後白河院の近臣と平氏並びに延暦寺との対立はこのままでは収まらなかった。

 そして8年後の治承元年(1177)、前年に後白河院が明雲から天台の戒を受けたにも拘らず、院の第一の近臣・西光の二人の息子の加賀守・師高(もろたか)とその弟の目代・師経(もろつね)が初任検注を妨害した白山神社・湧泉寺を焼き払ったことで、白山神社は本社の日吉社に訴え、延暦寺の衆徒が日吉社の神輿を奉じて師高の配流と師経の禁固を要求して強訴に及んだ。

 ここで、後白河院は清盛に出動を命じたが、明雲並びに延暦寺との衝突を回避したい清盛が動じなかった事から院は一度は衆徒の要求を受け入れて師高の配流を決定したものの、間をおかず院御所議定を翻して強訴の責任者として明雲の天台座主を剥奪、所領の没収ならびに伊豆への配流を決めたのだが、これは腹の虫が収まらない西光の進言によるものとされている。

 この処分に対して延暦寺の衆徒は蜂起して配流途上の明雲を奪還するのだが、激怒した後白河院はこの行為を国家に対する謀反と位置づけ、福原から清盛を呼び出して比叡山攻めを命じるが、謀反鎮圧となれば統治者後白河院の命に叛く事はできず、さて清盛がどうでるかと周囲が固唾を呑むなか、鎮圧出兵ギリギリの5月29日の夜半に突然「鹿ケ谷」事件が発生し、清盛の延暦寺攻めは回避されたのであった(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091026 )

 このように禍々しく、かつ俗臭ふんぷんたる比叡山と天台を見限った法然は、三学非器の乱想の凡夫のための浄土宗立宗を志して山を降りて西山広谷に遁世し、方や比叡山と天台の俗化に頭を痛めた栄西は、戒律復興を目指して日宋貿易で富を築く平氏の財力と人脈ならびに明雲の支援を得て入宋して禅と喫茶を日本にもたらすが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110217)、美作と備中、共に岡山から延暦寺に登って天台の戒を受けた同時代の二人の仏教者のありようはまことに興趣深い。

(※1)産土神(うぶすながみ):氏神・鎮守の神。

(※2)初任検注:検注は中世、国司荘園領主・在地領主などが、その所領の年貢等の徴収の基準を定める為、田畑の面積・耕作状況などを調査する事を指すが、概ね初任の年に行われる事が多かった。



参考文献 『日本の歴史 武士の成長と院政』 下向井龍彦 講談社学術文庫