後白河院と寺社勢力(132)僧兵(5)山門・寺門と摂関期

 正暦4年(993)8月に、円仁派の門徒から追放された円珍派の門徒比叡山を下りて園城寺を本拠としたことから、天台は山門(延暦寺)と寺門(園城寺)に分裂した事は先回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121028)が、その動機は、良源入滅後4年の永祚元年(989)良源の指名により天台座主を勤めた藤原師輔の子息・尋禅の後継に園城寺長吏(※1)で円珍派の余慶が任命されたことに円仁派の僧徒が強く反対して円珍派を追い詰めたことにあった。

 このような形で天台が山門と寺門に分裂して以降、両者は長期にわたる激しい抗争・合戦を展開してゆくのだが、摂関期末と院政期では山門・寺門に対する姿勢に変化が見られるので、先ずは摂関期末の代表的な山門・寺門の抗争を取り上げてみたい。

 長暦3年(1039)2月18日、園城寺の僧・明尊が第29世天台座主に任じられた事に抗議して延暦寺の僧徒3千人が京の関白藤原頼通邸に押しかけたが、頼通は僧徒とは対面せず、代理を介して「天台座主は古来智行兼備の者を任じる建前であって、必ずしも円仁派、円珍派と限ったことではない。現在、明尊以上に天台座主に相応しい者がいるか」と反論し、それに怒って邸に押し入ろうとした僧徒を検非違使(※2)に命じて捕らえさせている。しかし、その1か月後に延暦寺の僧徒は報復として元は桓武天皇皇子・高陽親王の邸宅で頼通所有の高陽院(※3)に火を放った事から明尊は辞任に追い込まれた。

 さらに、戒壇をめぐる問題では、天台が延暦寺園城寺に分裂して以来、延暦寺園城寺戒壇(※4)建立の勅許を下さないように朝廷に圧力をかけ続けていたが、長久2年(1041)5月、朝廷が諸宗に園城寺戒壇建立の可否を問うたところ延暦寺を除いて全て可との結果を得た。

 これに危機感を抱いたのか、過剰反応した延暦寺の僧徒が翌年の長久3年3月に園城寺の円満院を焼却し、その後も尾を引き承保2年(1075)2月には園城寺戒壇設立を巡って山門・寺門の僧徒が合戦を展開している

 ところで主白河法皇から「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ、朕が心に従わざる者」と三不如意の一つに挙げられた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091101)山法師とは延暦寺の僧兵を意味し、園城寺の僧兵は寺法師と呼ばれた。


(※1)長吏(ちょうり):一寺の首長たる僧。特に勧修寺・園城寺比叡山の横川楞権院(りょうごんいん)などで使うが、座主(延暦寺など)・別当東大寺興福寺など)に相当する。

(※2)検非違使(けびいし):平安初期から置かれた職で、京中の非法・非違を検察し、追補・訴訟・行刑を司った令外(りょうげ)の官のひとつ。

(※3)高陽院(かやのいん):中御門南・大炊御門北・堀川西・西洞院東の4町を占める大邸宅で頼通以後は藤原氏が伝領し、しばしば天皇の居所である里内裏になった。また、鳥羽天皇の皇后・泰子の院号となった。

(※4)戒壇(かいだん):僧尼戒律を授けるために設ける壇。因みに奈良東大寺・下野(栃木県)薬師寺筑前(福岡県)観世音寺・近江(滋賀県延暦寺戒壇を四戒壇と称した。


参考文献は『僧兵の歴史〜法と鎧をまとった荒法師たち』日置英剛編著 戒光出版