後白河院と寺社勢力(117)遁世僧(38)法然(10)ラジカルな

 『選択本願念仏集』(略して『選択集』)の選択は単に色々ある中のどれかを選ぶのではなく、専修念仏一行だけを選び取り他の一切の行を捨てるという窮めてラジカルな意味が籠められている。

 それでは、一体どのような経路を経て法然は『選択本願念仏集』を結実させたのであろうか。

 美作の国の押領使を父として豊かな家庭の一人息子として大事に育てられながら、有力荘園の預所から父が夜討ちされたことで9歳で安らかな生活を絶たれた法然は、13歳で叡山の戒壇院で受戒して天台経学を修得するも、当時の延暦寺は衆徒が武装日吉社の神輿を掲げて朝廷に向かって強訴を繰り返すだけでなく、天台座主(叡山のトップ)までも巻き込む叡山内の争乱に明け暮れとても求道(ぐどう)を究める場ではなかった。


 

武装した叡山の衆徒たち『法然上人絵伝 中』より)

 そんな中で「私の菩提を弔い、ゆくゆくは修行を積んで悟りをえるように」との父の遺言が忘れがたい法然は18歳で叡山西塔黒谷の慈眼房叡空に師事して遁世聖の道を歩み始め、そこの経蔵で法相宗三論宗華厳宗など数々の仏典を紐解き悟りの道を探る中で黒谷近くの念仏別所で源信(※1)の『往生要集』(※2)にであう。

 そして保元元年(1156)24歳の時に「律令国家の崩壊から武者の世へ」移り変わる保元の乱に遭遇した法然は、初めて叡山を降り嵯峨の清涼寺で7日間の参篭をするなかで、貴賎・老若・男女を一切問わず同列に座してひたすら拝む様々な階層の参詣者を目にし、叡山でのこれまでの修学・修行では得られなかった全く新しい境地に立つことになる。

 古い国家形態は崩壊しつつも新たな国家の形態と支配者は定かではないという、不安に満ちた動乱期の真っ只中、救われるべきは三学非器の乱想の凡夫である自分と同じ庶民であり、既に存在している貴顕のための法門ではなく乱想の凡夫の法門こそが今求められているのだと。

 再び黒谷に戻った法然は『往生要集』の示唆する浄土教を凡夫も成仏できる道に繋がんと経蔵の典籍をあれこれひっくり返して読み進め、「末世の凡夫も弥陀の名号を唱えれば往生が叶う」と説いた唐僧・善導の教えに辿り着き、遂に99%の衆生が成仏できる「一向専修念仏」に帰依する。時は安元元年(1175)法然43歳の春であった。
 
 ところで『往生要集』については、師・叡空も造詣が深く、ある日叡空と法然は対座して「念仏」について議論を闘わす。善導和尚の釈義に確信を得た法然は「往生を望むには念仏を称える以外に道は無い」と称名念仏を主張したが、対する叡空は「仏の相好・功徳を観想して仏の名号を念ずる以外にない」と観想念仏を主張して互いに譲らず、「師の良忍上人も同様の意見であった」と叡空が畳み掛けると、法然は「良忍上人も先にうまれなさっているのでは」と叡空を立腹させる。


(対座して叡空と「念仏」議論を交わす法然法然上人絵伝 上』より)

 「良忍上人も先に生まれたに過ぎない」とは云いも云ったり、とどのつまり「先生とは単に先に生まれただけ」と言ってのけたのと同じで、『法然上人絵伝 上』では叡空は立腹したが話は落着した、と書かれているが、別の伝説では短気な叡空が玄関にあった履物で法然を打ったとされている。

 「一向専修念仏」立宗とその理論構築こそ今後の自分が進むべき道と思い至った法然は叡空に別れを告げて黒谷を去り、念仏聖が多く庵を構える西山の広谷に棲む親交のあった遊蓮房円照を訪ね暫く彼のもとに身を寄せる。この時の法然は、さほど名もなく、棲家もなく、弟子もなく、信者もいない一人の遁世聖に過ぎなかった。


(※1)源信(げんしん):平安中期の天台宗学僧。恵心(えしん)僧都とも。大和の人。天台座主で、叡山中興の祖とされる良源に師事し、論議・因明学を学んだが横川に隠棲して『往生要集』を著し浄土教の理論的基礎を築いた。

(※2)『往生要集(おうじょうようしゅう)』:仏書。経論(仏陀の説法を集成した経と経を注釈した論)


参考文献:『選択本願念仏集』訳・注・解説 石上善應 ちくま学芸文庫