後白河院と寺社勢力(129)僧兵(2)出現

  院政期の代々の専制君主たる法皇を悩まし続けた山法師・僧兵は一体何時頃出現したのであろうか。

「武士が先か、僧兵が先か」は、未だ「卵が先か鶏が先か」に類する論争の一つですが、僧兵の出現ともいうべき僧侶の武装が始まったのは、天禄元年(970)に天台座主延暦寺のトップ)良源(※1)が、比叡山の綱紀粛正を狙って、僧侶が裹頭頭巾(※2)に兵杖(※3)を帯びて僧房に出入りすることを禁じる「26箇条起請」を定めた頃とされている。


(上図は裹頭頭巾に兵杖を携えた僧兵『法然上人絵伝 中』より)

 しかし、実際にはその約140年前の天長10年(833)7月14日には、延暦寺の僧徒が天台座主・円修の就任に抗議して円修の門徒50余人を排斥しており(『山門三井確執記』)、まさかこの抗争が素手・丸腰で行われたとは思われず、延暦寺の僧徒は最澄が開山した延暦7年(788)から50年後には武装していたと考えられる。

 ところで、僧兵といえば何かと延暦寺が連想されるが、延暦13年(794)の桓武天皇による平安遷都以前の仏教界は興福寺東大寺をはじめとする南都大寺院が中心であったことから、朝廷や藤原氏の威を背にした興福寺東大寺の僧兵が既に大きな力を蓄えており、承平7年(937)南都大寺院が独占していた維摩会(※4)の論議に25歳にして賢僧として知られた延暦寺の良源が出席した時には南都の僧徒が裹頭頭巾に兵杖を携えて抗議をしている。

 さらに、南都では寺領をめぐる寺院間の争いも峻烈を極め、例えば良源が「26箇条起請」を制定する2年前の安和元年(968)の1年間に限っても

6月14日には東大寺興福寺が大和田村荘を巡って闘争し、この件で興福寺の僧徒は初めて春日社の神木を奉じて入洛するという、神木という神の威力を借りて神霊を畏れる公卿を震撼させる大デモンストレーションを行い、1か月後の7月15日にも、興福寺の僧徒が寺領を巡って東大寺と争い、再び春日社の神木を奉じて入洛し朝廷に圧力を加えている。


(※1)良源(りょうげん):第18世天台座主を勤めた天台宗の僧。藤原師輔の援助を受けて当時荒廃していた比叡山の復興に努め天台宗中興の祖と称せられた。諱号は慈恵大師。

(※2)裹頭頭巾(かとうずきん):僧侶の頭を袈裟などで包み眼だけを出す装い。

(※3)兵杖(ひょうじょう):一般に太刀・弓矢などの武器を指す。

(※4)維摩会(ゆいまえ):南京(なんきょう)三会の一つ、興福寺維摩経を講ずる法会。
    因みに南京三会とは興福寺維摩会、薬師寺の最勝会、大極殿の御斎会。対する北京(ほっきょう)三会は、法勝寺の大乗会、円宗寺の法華会および最勝会。


参考文献は『僧兵の歴史』 日置英剛編著 戎光詳出版