後白河院と寺社勢力(128)僧兵(1)治天の君の不如意

【長寛元年(1163)】

3月3日 延暦寺が朝廷に園城寺僧徒を比叡山戒壇院で受戒させることを要請。
5月22日 これを受けて朝廷は園城寺に対して比叡山戒壇院での受戒を命じる宣旨を下す。
5月29日 興福寺が朝廷に、延暦寺興福寺の末寺とし園城寺僧徒を興福寺で受戒させることを要請。
6月9日 延暦寺衆徒が園城寺を攻撃し堂塔・房舎を焼く。
7月25日 興福寺衆徒が延暦寺との抗争を制止した興福寺別当・恵信を追放する為に恵信派の衆徒と抗争。

 (この一連の騒動は、園城寺戒壇院設立を朝廷に願い出たものの延暦寺の強い反対で許可が下りず、そのため園城寺の学僧・修行僧が僧籍を得るうえでの正式な受戒の儀式を東大寺あるいは興福寺戒壇で行っていたことに起因する。因みに延暦寺の開祖・最澄興福寺を始めとする南都諸大寺の強い反対の前に悲願の戒壇院設立を実現できず、ようやく勅許されたのは最澄の死後7日目の弘仁13年(822)6月11日であった。 

【仁安2年(1167)】

1月1日 延暦寺西塔の大衆が天台座主・快修の罷免を求めて東塔の大衆と抗争。
2月3日 天台座主・快修が逐電する。
3月10日 上述の長寛元年7月に追放された前興福寺別当・恵信が一門の大衆を結集して興福寺別当・尋範を襲撃し、喜多院・禅定院・大乗院などを焼討にする。
5月13日 興福寺の大衆が春日社の神木を奉じて前別当・恵信の流罪を要求して朝廷に嗷訴。
5月15日 興福寺別当・恵信が伊豆に配流される。

【治承2年(1178】

1月20日 後白河院園城寺での伝法灌頂(※1)受戒を阻止する為に延暦寺の大衆が蜂起して園城寺の焼討を図るが朝廷から使者を派遣して説得。
10月4日 延暦寺の学生と堂衆が抗争し、学生の要請をうけ後白河院平清盛に堂衆の鎮圧を命じる。

 「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ、朕が心に従わざる者」と「三不如意」を嘆いた希代の専制君主白河法皇は、山法師、つまり僧兵に手を焼いたが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091101)、その曾孫の治天の君後白河院も曽祖父に劣らず僧兵に翻弄されていた事が上記の例からも読み取れる。

 実際に後白河院政の主たるエネルギーは僧兵対策に当てられたと表しても過言ではない。何故なら中世大寺院の僧兵集団が、武力と経済力を背景に貴族・武士と互角にわたりあい、時には源平盛衰を左右するほどの力を蓄えていったのは後白河院政から鎌倉時代にかけてであった。

(※1)伝法灌頂(でんぽうかんちょう):密教阿闍梨あじゃり)位を得ようとする者に秘密究極の法を授ける灌頂。因みに後白河院は「阿闍梨行真」の法名を持つ高僧でもあった。 

参考文献は以下の通り

『僧兵の歴史』 日置英剛編著 戎光詳出版

『京を支配する山法師たち』 下坂守 吉川弘文館