後白河院と寺社勢力(122)遁世僧(43)法然(15)清盛と南都

 福原から数千騎を率いて上洛した清盛が内裏を制圧し、後白河院を鳥羽殿に幽閉して院の近臣を解官したあと、高倉天皇に譲位を迫って外孫の安徳天皇を即位させた治承のクーデターについては広く知られているので詳しくは触れないが、後白河院を排除しての安徳天皇即位の強行は、天皇の正当性の根幹を揺るがす暴挙であり、そのうえ軍事力を背景に大量解官と追従者の任官を図ったことは平氏の孤立を深める結果を招いた。

 中でも、上皇としての始めての神社参を石清水八幡宮賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行う慣例を破って、清盛が高倉天皇譲位後の初の神社参を「平氏氏神」である厳島神社に強要した事は平氏を窮地に追い込む決め手になった。

 この清盛の決定に強く反発した園城寺大衆は、長年不倶戴天の敵として争ってきた延暦寺興福寺の大衆に働きかけて、後白河院高倉上皇を京から脱出させて厳島社参を妨害する策謀が露見して都を騒然とさせたが、この南都(興福寺)北嶺(延暦寺園城寺)の反平氏包囲網に尤もショックを受けたのは他ならぬ清盛であった。今回の軍事クーデターで清盛は平氏の護持僧・明雲を再び天台座主に据え延暦寺対策に万全を期していたからである。

 こうした大衆の反平氏活動はこれだけでは収まらず、高倉上皇一行が厳島神社から帰京した4月9日付けで後白河院第三皇子・以仁王の名による「平氏追討令旨」が諸国の源氏に充てて発せられ(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090527)、それに対して清盛が以仁王配流を決定し追捕兵を向けた時には園城寺以仁王一行を匿っている。

 これに怒った清盛が大規模な園城寺攻撃軍を派兵した時には、園城寺延暦寺の大衆3百名が防戦しており、結果的に平氏追捕使は延暦寺を脱出して南都に向かう以仁王一派を討ち取ったものの、南都とりわけ興福寺の大衆が以仁王を迎えて平氏軍と戦う体制を整えていた事から、南都北嶺大衆の動きに脅威を抱いた清盛は、南都北嶺から離れて体勢を立て直すために後白河院高倉上皇安徳天皇を具して福原遷都を強行する。

 ところが皮肉にも、以仁王の討死後に「平氏追討令旨」の効果がじわじわと発揮され、8月の源頼朝の伊豆挙兵を狼煙として諸国の源氏の蜂起が相次ぎ内乱状態になった事から、清盛は半年も経ず福原遷都を断念して急遽京へ帰還するが、この頃には在地武士だけでなく園城寺延暦寺の大衆が加わり近江における平氏への叛乱は活発化していた。

 園城寺延暦寺に劣らず、いやそれ以上に反平氏の姿勢を強めていたのは南都の興福寺であり、パトロンである摂政藤原基通の諌めも耳に貸さず露骨に平氏を挑発していた事から、腹に据えかねた清盛が4男の平重衡を大将に据えた4万騎の大軍を南都に派兵するのだが、12月28日の夜、兵士の放った火が折からの強風に煽られ東大寺興福寺の大伽藍を灰燼に帰する事になる。

 私がここで強調したいのは、これまで学校の歴史では決して教わる事のなかった、一大権力としての寺社勢力の圧倒的な存在感である。平氏に止めを刺したのは源氏であるが、平氏の墓穴のきっかけを作り、次いで平氏を翻弄して窮地に追い込んだのは正に南都北嶺を代表とする寺社勢力であった。平氏都落ちの原因となった木曾義仲の入洛自体、延暦寺の支持が無ければ近江越えは実現せず、歴史はもっと違っていたかもしれない。

 「武者の登場」で象徴される院政期から鎌倉時代の動乱期は、朝廷と武士の二大勢力だけで権力を争ったのではなかった。日吉社・春日社・熊野社などと結びついた延暦寺園城寺興福寺東大寺などの寺社勢力こそ、朝廷・武士と互角に渡り合って第三の権力として歴史を大きく動かしたのである。

 下図は『天狗草紙』が描く延暦寺園城寺の最高意思決定機関「満寺(山)集会」である。参加者は互いに見分けがつかないように袈裟で覆面をし(寡頭)、鼻をつまんだりしながら声を変えた。提案者の大演説を聞いて賛成なら「尤(もっとも」、反対なら「謂われなし」と叫んだ。画中には延暦寺園城寺を、園城寺延暦寺を非難する文が書き込まれている。
 
全共闘や匿名のソーシャル・ネットワークの原形は既にこの頃から形成されていたのだ。

  

延暦寺三塔会合詮議の場、延暦寺三塔は横川・西塔・東塔から成る)


園城寺三院会合詮議の場、園城寺三院は南院・中院・北院からなる)


参考文献 は以下の通り。

『日本の歴史 武士の成長と院政』 下向井龍彦 講談社学術文庫

『新潮日本古典集成 平家物語 中』 新潮社