後白河院と寺社勢力(130)僧兵(3)円仁・円珍

 治承2年(1178)1月20日、後白河院園城寺での伝法灌頂伝授を阻止する目的で延暦寺の大衆が蜂起して園城寺の焼討を図るが朝廷の説得に従った事は先に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121008)。

 朝廷の説得には後白河院園城寺での伝法灌頂伝授を断念す条件が含まれていた事は明らかで、結果的に後白河院四天王寺で伝法灌頂の秘法を受けて阿闍梨の僧位を得たのだが、一体なぜ延暦寺の僧徒は法皇園城寺での伝法灌頂伝授にこれほど強硬な姿勢を示したのであろうか。


その要因は延暦寺の歴史に起因すると思われるので、ここで、延暦寺園城寺対立の要因に焦点を当ててその経緯を浚ってみたい。

 東大寺で受戒した最澄伝教大師)が比叡山の草庵に籠り、後に根本中堂に発展する薬師如来を本尊とした一乗止観院、および左右の経蔵・文殊堂を建てて比叡山寺を創建したのは延暦7年(788)であった。

 その後の延暦23年(804)に遣唐使として入唐した最澄は天台教学を学んで翌年6月に帰朝し、天台の教えによる国家鎮護を目指して比叡山寺で天台宗を設立し、近江側に近江宝塔院(東塔院)を、山城側に山城宝塔院(西塔院)を建立し、晩年は天台宗独自の戒壇院建立を目指すが南都諸宗の反対に直面してその実現を見ることなく弘仁13年(822)6月4に56歳で没した。

朝廷から最澄悲願の戒壇院建立の勅許が下りたのは最澄の死の7日後であり、さらに翌年には朝廷から「延暦寺」の寺号を賜っている。

 最澄の弟子で後継者となった義真は天長元年(824)に始めて「延暦寺天台座主」と称して延暦寺に大講堂を建立し、これより延暦寺は南都諸大寺(僧綱)の管轄を脱して独立した教団としての活動を開始するが、その後の延暦寺の発展に大きな貢献を果たしたのが円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)であった。<円仁(慈覚大師):第3世天台座主>

 円仁は15歳で叡山に登り最澄の初めての弟子としなったが最澄の死後は横川の草庵で法華経の「如法写経」の書写を行い、それを納めた首楞厳院(根本如法堂)を建立して新たな教学の場とした。その後、承和5年(838)に入唐し10年近く滞在した唐で密教を学び、帰朝後は東塔・前唐院を住房として比叡山上で初めての灌頂会を催し、さらに舎利会・天台大仏供・不断念仏会などの法会を定めた。

 仁寿4年(854)に朝廷より第3世天台座主に補された円仁は密教の典籍を収納する経堂、文殊楼、および天台密教の根本道場となる法華総持院などの堂宇を建立し貞観六年(864)正月14日に71歳で没した。<円珍(智証大師):第5世天台座主>

 空海の甥とされる円珍は15歳で叡山に登って第1世天台座主・義真の門下に入り、仁寿3年(853)に入唐して天台と密教を学び、天安2年(858)に一千余巻の密教典籍を携えて帰国し、近江の三井に天台別院を構えて円珍流派の学室を築き後に園城寺と称した。

 貞観10年(868)第5世天台座主に叙されたた円珍はその後没するまでの24年間を座主として勤め、園城寺の伽藍を整備するとともに根本中堂を9間の大講堂に改築し、念願であった朝廷からの延暦寺領範囲を認定する山上「四至」の太政官符を獲得し寛平4年(892)10月に78歳で没した。

 死の前年の寛平3年、円珍が遺言を書いて与えた弟子の増命に円仁門徒との親交を諭したと伝えられているが、この事は当時から円仁門徒円珍門徒との対立が表面化し円珍の危惧となっていたことを示している。

 円珍没後の延暦寺の流れをみると、第13世天台座主・尊意に至るまでの70余年間は一人を除いて全て円珍派の門徒が占めた事から、円仁派の門徒は山科・元慶寺や京都・法性寺など叡山外の寺院で不遇をかこつことになり、長い期間の鬱積した怒りが円珍門徒に向けられていったと思われる。

 その円珍の危惧は、彼の没後百年を経た正暦4年(993)8月に、円仁派の門徒から追放された円珍派の門徒比叡山を下りて園城寺に籠るという最悪の事態となって結実し、これ以降の天台宗は山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂してその後も延々と血で血を洗う抗争を展開してゆく。


参考文献は以下の通り

『京を支配する山法師〜中世延暦寺の富と力』下坂守 吉川弘文館

『僧兵の歴史〜法と鎧をまとった荒法師たち』日置英剛編著 戒光出版

比叡山』景山春樹 角川選書