後白河院と寺社勢力(118)遁世僧(39)法然(11)衝撃の武者

 さて、全ての仏教界を敵に廻しかつ朝廷並びに幕府から度々弾圧された「専修念仏」を立宗するに至った法然を理解する為にここで法然が生きた時代に眼を据えてみたい。

 法然が生まれた長承2年(1123)は崇徳天皇の御世であるが、「公地公民制」に則った律令体制は大きく綻び、退位した天皇の父である上皇自身が近臣・側近に寄進させた広大な荘園領主としての経済・権力基盤を背景に天皇の頭越しに専制支配を行った院政期の真っ只中であった。

 つまり、律令体制の頂点に立つ天皇上皇女院摂関家自体が律令体制を骨抜きにする荘園拡大に走る「荘園・公領制」に既に舵は切られており、私見を述べるなら、法然の父で美作の押領使漆間時国が中央有力荘園の預所の夜討の襲撃を受けて絶命した事自体、慈円が『愚管抄』で「武者ノ世ニナリニケリ」と嘆息した保元の乱の先触れであったといえる。

 押領使とは兵を率いて体制に刃向かう逆賊を鎮圧する令外の官吏、つまり、律令体制を維持する臨時の下級官吏であり、死を前に漆間時国が自分の跡取りとして武芸も仕込んでいた9歳の法然に「敵を討つな。早くここを出て私の菩提を弔い、ゆくゆくは出家して悟りの道を窮めよ」と遺言したのは、自分のような律令体制を支える末端の官吏が早晩不用になる事が見えていたからであった。

 そして、法然が24歳にして遭遇したのが保元の乱の勃発であった。

 保元の乱とは、端的に言えば、広大な荘園領主の座を巡る天皇家摂関家のそれぞれの跡目争いであり、後白河天皇には摂関家藤原忠通、対する崇徳上皇には摂関家藤原頼長が組して、彼らの傭兵であった源氏と平家がそれぞれ表舞台に飛び出して敵味方に分かれて刃を交えた合戦であったが、世情を震撼させたのはその決着の速さと乱後処理の凄惨さであった。

 乱は保元元年(1156)7月10に勃発したが翌日には後白河天皇側の勝利として決着し、同月23日に既に出家をして罪を償っていた崇徳上皇を配流先の讃岐に出立させ、同28日には平清盛が敵方に回った叔父の平忠正とその子5人を斬首、そして同30日には源義朝が同じく敵方に回った父・源為義を斬首するという誠に血生臭いものであったが、これらの処理一切を仕切ったのは後白河天皇即位と共に急速に存在感を高めた黒衣の入道・藤原信西であった。


  

崇徳上皇後白河法皇 『図版天子摂関御影』より )

 嵯峨天皇の御世から数えて350年、この間一切の死刑が行われなかった泰平に馴れ切った人々に、この乱が世情に与えた衝撃は大きく、著書『後白河院』で井上靖は『兵範記』(※)の著者、平信範(たいらののぶのり)が家司として仕えた若き日の九条兼実に語るかたちで形容したその有様の一部を以下に引用したい。

 《合戦騒ぎが終わって一番はっきり感じられた事は、長年陰気にくすぶっていた皇室や公卿の対立が、合戦というものであっという間に片付いたということでございます。ごく僅かな時間で、そうした陰気などろどろとした厭なものが跡形も無く消え去り、片方が勝利を占め、片方が殺されたり、流されたり、幽閉されたりして、信じられないようなすばやさで一切のけりがついたということでございました。

 ある夜、どこからともなく武士の群がやってきて、さしたる評定を開くでもなく、がやがや言い合ってひと晩眠り、翌朝早く出掛けて行ったと思うと、あっという間に何もかも片がついてしまった。

 長い間、公卿や朝臣たちがどうすることもできないで、持て扱いかねていたものを、武士たちに頼んでみたら、ほんの一刻か二刻で、簡単に処理してくれた》と、平信範は驚愕をこめて述べている。

 そしてこれを機に、参議だのと呼ばれた高官貴族だけに出入りが許された内裏に、我が物顔で横行する武士が増える一方で、武士のお陰を蒙って安泰を得た公卿や朝臣は、彼らに一目置くだけでなく、目に日に勢力を失って無力化してゆくのである。

 しかし、そうまでして手に入れた天皇の座を即位3年足らずで二条天皇に譲った後白河は、上皇とし院政を開始し、あれよあれよという間に後白河院の寵を得た藤原信長と藤原信西の対立から、平治元年(1159)11月26日に再び京を戦火に晒し(平治の乱)、この乱により保元の乱の最大の勝者であった藤原信西は獄門で晒し首にされ、藤原信頼方で闘った源氏は池禅尼の助命嘆願で伊豆に流された頼朝を除いて棟梁の源義朝始め一族が粛清される。


(獄門に晒される藤原信西の首 『日本の絵巻 平治物語絵詞』より)


 そして、法然が、保元の乱後に釈迦像に向かって一心に手を合わせて救いを求める庶民を目にして、彼ら衆生をこそ救う仏教者になろうと誓いを立て、43歳で専修念仏に帰依するまでの20年間は、奇しくも向かう所敵無しの平氏が一族の繁栄を求めて頂点に登りつめる時期と重なるのであった。


(※)兵範記(へいはんき、または ひょうはんき):平安末期、兵部卿(ひょうぶのきょう)平信範の日記。1132〜71年にかけての記事があり、保元の乱高倉天皇即位など、当時の政治・社会情勢を知る上で貴重な資料。


参考文献:『後白河院』 井上靖 著 筑摩書房