2010-01-01から1年間の記事一覧

後白河院と寺社勢力(32)経済を支える悪僧・神人(2)訴訟介入1

下図は東寺の供僧が肥後国飽田(あきた)郡鹿子木(かのこぎ)庄の支配権を巡る争いに介入して、自分が開発領主権の継承者であることを証明する根拠として訴状に添えられた鎌倉時代末期の永仁年間(1293〜98)に書かれたとされる権利主張の文書である…

後白河院と寺社勢力(31)寺社経済を支える悪僧・神人(1)高利貸

保延2年(1136)、鳥羽上皇は比叡山延暦寺境内にある日吉社(ひえしゃ)の大津神人から、「近年上下の諸人が神物を借り請けながら全く弁済をしない。借りる時には丁寧な契約状を交わしておきながら、いざ返済を催促すると、『院宣がないと返済しない』…

後白河院と寺社勢力(30)「獅子身中の虫」と糾弾される悪僧・神人

永久元年(1113)の春、朝廷は興福寺の末寺清水寺の別当に仏師の法印円勢を任命した。これは、名工と謳われた仏師定朝が清水寺の別当に任命された先例にならい、かつ円勢が定朝の孫弟子であることが考慮されたのだが、この人事に対して、清水寺の本寺で…

後白河院と寺社勢力(29)「邪濫の僧」から「悪僧・神人」へ

延喜14年(914)に三好清行が憂えた「邪濫の僧」は、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)、 院政期にはいると、末社関係にある神社の神人と結託して(例:延暦寺の僧は日吉社の神人と、興福寺の僧は春日社の神人と)、神輿を奉じて数千人規模で嗷訴を繰り…

後白河院と寺社勢力(28)邪濫の僧

延喜14年(914)参議・文章博士三好清行(みよしきよつら)は、醍醐天皇の求めに応じて奏上した「意見封事12箇条」で、 「諸国の年分度者(※1)及び臨時の度者は年間200〜300人もありますが、その半分以上は邪濫の輩(ともがら)です。また、…

後白河院と寺社勢力(27)寺社荘園(6)義経逃亡と不入権

文治元年(1185)、源頼朝は源義経追補を目的として嫌がる後白河院を何とか説得して何とか守護・地頭設置を認めさせ、全国に有力な御家人を配して厳しい捜索を続けたが、その甲斐も無く2年近くも義経を捕縛することは出来なかった。その義経は頼朝の強…

後白河院と寺社勢力(26)寺社荘園(5)最大の寄進者―法皇

寺社荘園は院政期に入ると爆発的に増加するが、それもそのはず、もっとも盛大に寺社への荘園寄進を行ったのは白河・鳥羽・後白河の3代の法皇であり、彼らは、高野山・熊野・東大寺・興福寺・石清水八幡・延暦寺・園城寺・東寺などへ頻々と御幸し、また、修…

後白河院と寺社勢力(25)寺社荘園(4)寄進荘園の増大

前回は、本来国家に支えられた官営大寺院が律令国家の崩壊と封戸の減少がもたらす国家財政の破綻により荘園拡大に乗り出さざるを得なくなと述べたが、 http://d.hatena.ne.jp/K-sako/ これは何も大寺社だけでなく、摂関家を初めとする貴族も同様であったが、…

後白河院と寺社勢力(24)寺社荘園(3)律令国家の崩壊と荘園拡大

かつて大寺院は「鎮護国家」の祈願を任務とする官営大寺院として繁栄し、経済基盤も国家管理の封戸(※1)で賄われていたが、8世紀頃からは自ら荒地を開墾して寺田を所有するようになったが、それでも基本的には国家の支援で充分賄えていた。 例えば東大寺…

後白河院と寺社勢力(23)寺社荘園(2)荘園を巡る東大寺と伊賀守

ところで、「私の任国には摂関家の5家を含む中央貴族6家と興福寺・東大寺の所領が満ちて一勺(0.018ℓ)の租税も徴税できません」と太政官に泣き付いた伊賀守藤原棟方であったが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)、 その同じ訴状で「前々の伊賀守藤原…

後白河院と寺社勢力(22)寺社荘園(1)伊賀守が太政官に泣きつく

任期終了を控え自らの悪事の痕跡を消すために帳簿改竄をさせた挙句その書生を殺害した日向守藤原某、馬に乗ったまま谷底に落ちながら引き上げられたときには平茸を掴んでいた信濃守藤原陳忠など、今昔物語が国守の貪欲さを見事に浮き彫りにしたように、中央…

後白河院と寺社勢力(21)国守の受難(4)藤原公任 紙背文書と装

平安・鎌倉期に朝廷と幕府が発した公文書は殆ど残っておらず、当時を再現するには「中右記」「御堂関白記」などの公卿日記と大寺社が保管する荘園等土地証書をつき合わせるしかないとされる状況の中で、紫式部の夫の荘官に徴税活動中の郎党を殺害された大和…

後白河院と寺社勢力(20)国守の受難(3)追捕官符と王朝の治安機

藤原宣孝の荘官一味に徴税に当たっていた部下を殺害された大和守源孝道の対応は素早かった。彼は郡司が作成した初期捜査記録である「事発日記」に「国解」を添えて朝廷に上奏し、折り返しに朝廷から「追捕官符」を受け、直ちに官人と追捕使を率いて犯人4人…

後白河院と寺社勢力(19)国守の受難(2)徴税中の部下を殺された

長保元年(999)8月、大和国城下東郡で早米(早稲)の徴収をしていた大和守源孝道の郎党が数十人の暴徒に殺害された。当時の国守が中央政府に提出した犯罪捜査記録ともいえる「大和国解」(※1)によると、この事件は右衛門権佐(ごんのすけ)藤原宣孝所…

後白河院と寺社勢力(18)国守の受難(1)朝廷に訴えられる尾張守

本来なら律令国家の忠実な地方官僚として地方政治に携わっていた国守(受領)であったが、中央貴族が地方政治を省みなくなり国守に丸投げしたため、国務請負人たる国守としては、摂関家に独占された中央政界への出世の道も望めず、その特権的な地位を利用し…

後白河院と寺社勢力(17)成功(※1)というの国守の買官運動

長和5年(1016)7月20日の深夜藤原道長の住まいである土御門邸が周囲の2百余軒と共に全焼し、その報を聞きつけて公卿を始め諸国からも受領(国守)たちが続々上京して道長を見舞った。 そして道長は直ちに土御門邸再建の計画を立てて8月19日には…

後白河院と寺社勢力(16)国守から寺社権門に逃れる理由(わけ)

さて前述した「猫怖ぢの太夫」藤原清廉(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)の息子実遠(さねとう)は在地では猛者として知られ、その威力を発揮して父から相続した大和・山城・伊賀の領地の人間をまるで従者のようにこき使って資産を肥やす一方で、国守に対し…

後白河院と寺社勢力(15)国守(8)猫攻めで藤原清廉から徴税した

「今昔物語第 巻第28 本朝付世俗 大蔵の太夫藤原清廉、猫を怖ぢたる語(こと)」 今は昔、 大蔵省の三等官を務めて従五位下を授けられ大蔵の太夫(※1)と呼ばれる藤原清廉(きよかど)という者がいた。 その男は前世が鼠だったのかと思われるほど猫を怖が…

後白河院と寺社勢力(14)国守(7)「寸白が信濃守に任じて解け失

「今昔物語 巻第28 本朝付世俗 寸白(※1)、信濃守に任じて解け失せたる語(こと)」 今は昔、 お腹に寸白を持つ○の○という者の妻がいた。その女が懐妊して男の子を生み、その子を○と名付けたが、成長して元服の後に官位を得て、遂に信濃守となった。 さ…