後白河院と寺社勢力(18)国守の受難(1)朝廷に訴えられる尾張守

 本来なら律令国家の忠実な地方官僚として地方政治に携わっていた国守(受領)であったが、中央貴族が地方政治を省みなくなり国守に丸投げしたため、国務請負人たる国守としては、摂関家に独占された中央政界への出世の道も望めず、その特権的な地位を利用して飽くなき富の蓄積を求めて任国に対する収奪を強めていった。


 そのために、10世紀から11世紀初頭にかけて、地方の郡司(※1)や百姓(※2)達が結束して国守の数々の暴政を朝廷に訴え、国守の更迭を要求する運動が頻発した。


 例えば永延2年(988)11月8日、尾張国(愛知)の郡司・百姓が、国守藤原元命(もとなが)の不法31か条を列挙して一条天皇の朝廷に訴えた。それによると、元命は彼の一族や郎党の武力を用いて、規定額を遥かに越す租税を強奪し、中央に上納すべき調(※3)の絹は任国から大量に良質の絹を徴収して自らの懐に入れ代わりに他国から粗雑な絹を規定量買い込んで上納し、さらに任国の感慨施設の補修費や救難費を横領着服し、その上、部下である下級国司の俸給まで横取りした事などが挙げられている。


 なるほど、これで自分の懐が潤わない方がおかしい位だが、尾張の他にも、伊勢(三重)、加賀(石川)、丹波(京都部)などの百姓達からも次々に訴えがなされ、中には32か条、24か条などと、国守の不法数を挙げ連ねるものもあり、この法式が流行していたのではないかと思われるほどだったようだ。


 ここで言及しておきたいことは、ここに登場する百姓は郡や郷の役人や土地の顔役、あるいは旦那衆といった在地の富裕な実力者をさし、現在の私たちが思い抱く一般農民像とは大きくかけはなれている。


 ところで、不法国守を訴える郡司・百姓の強かさは、除目(任官式)や功過定(こうかさだめ)など、国守の成績判定会議の直前を狙って訴えを起すタイミングの巧みさに表れており、それだけに彼らは京の情報収集を相当密に行ない、作戦を練りに練っている事が窺える。


 では、このような訴えを持ち込まれた朝廷の対応はどうであったかといえば、一応は郡司・百姓の言い分を聞くという姿勢で臨むが、国守に対しても徹底的に追及する事までは進めず、せいぜい国守の交替で鎮静を図っていたようである。


 朝廷にしてみればこのような訴えは、中央貴族自らの怠慢から生じた「身から出た錆」である事もわかっていたのではないか。

 
(※1)郡司:律令時代の地方行政官。地方の実力者から任命されて国司(国守)の下にあって郡を治めた。

(※2)百姓:一般の人民。公民。

(※3)調:律令制の現物納租税の一つ。海産物、繊維製品、鉱産物など土地の産物を徴収。


参考文献:「日本の歴史5王朝の貴族」土田直鎮著 中公文庫