後白河院と寺社勢力(28)邪濫の僧

 延喜14年(914)参議・文章博士三好清行(みよしきよつら)は、醍醐天皇の求めに応じて奏上した「意見封事12箇条」で、


「諸国の年分度者(※1)及び臨時の度者は年間200〜300人もありますが、その半分以上は邪濫の輩(ともがら)です。また、諸国の民は課役を逃れ、租・調を逃れるために自分で髪を剃り落して私度僧となる者がこのごろ多くて、天下の人民の三分の二は禿首(坊主頭)の者です」と延べて、徴税から逃れるために自分で頭を剃って僧侶になる者が後を絶たない状況を憂え、


 続けて、彼らの多くは寺内に居住せずに市中に家を構えて妻子を持ち、中には生臭い獣肉を喰らう屠者の輩もおり、甚だしいのは徒党を組んで国司(国守)や民家を襲って世の中を乱すので、朝廷は彼らを厳しく取り締まるべきだと進言している。


 古代、「鎮護国家」の祈祷を旨とする寺院は国家に支えられ、それに奉仕する僧侶は国家公務員として身分と生活を保障され、課役・賦役からも免除されていた。その代わり高い資質を維持するために、一定の厳しい修業を課し、さらにその中から国家の認定を得たものだけを僧侶として認め、自分で出家する、いわゆる私度僧は厳しく禁じられていた。


 三好清行のこのような憂いと進言は、10世紀初めには国家と寺社の関係に大きな変化が生じていたことを示している。


(※1)年分度者:平安初期、仏教各宗の諸大寺で毎年人数を定めて学業を試験して得度者を許し、その後、沙弥行を修し、受戒後12〜6年間、所定の経・論を学ばせたもの。

(※2)南都北嶺(なんとほくれい):南都(大和)の諸寺と比叡山を指すが、特に興福寺延暦寺を指す。


 下図は南都・北嶺(※2)以下諸大寺の僧侶の驕慢や乱脈の狂態振りを天狗に例えて風刺した「天狗草紙」から酒宴に興じる僧侶と天狗を描いた場面である。


(「続日本の絵巻26 土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞」中央公論社より)


参考資料「日本の歴史6武士の登場」竹内理三 中公文庫