平安・鎌倉期に朝廷と幕府が発した公文書は殆ど残っておらず、当時を再現するには「中右記」「御堂関白記」などの公卿日記と大寺社が保管する荘園等土地証書をつき合わせるしかないとされる状況の中で、紫式部の夫の荘官に徴税活動中の郎党を殺害された大和守源孝道が朝廷に上奏した捜査記録とも言える「大和国解」がなぜ残されていたのか。
それは、藤原公任(966〜1041)が、平安中期の最も権威ある儀式書とされる「北山抄」(※)の草稿を「大和国解」の裏を使って書いたからである。因みに、「北山抄」草稿には長徳2年(996)11月25日から長保2年(1000)3月2日に至る検非違使庁の関係文書が使われているが、それは、ちょうど公任が検非違使庁別当を務めた期間と重なり、役目を終えた彼は自分の任期終了とともに用済みになった文章の裏側を用いて「北山抄」の草稿を書いたのである。
本来の役割を終えて処分された文書が裏返して日記や書物の用紙に再利用されて残る事を「紙背文書(しはいもんじょ)」と呼ぶが、名門貴族の誉高い藤原公任ですらそうせざるを得なかったところに、当時は紙が如何に貴重であったかが読み取れる。
ところで話はぶっ飛ぶが、
今から20年以上も昔、大阪淀屋橋の湯木美術館に足を踏み入れた私を釘付けにした作品があった。手の込んだ華麗な料紙に風雅な筆致で書かれた【重文 石山切(伊勢集)伝藤原公任 (平安時代)】が展示されていたからである。
(「湯木美術館蔵品選集」より)
これまで「枕草子」や「源氏物語」などの文字を通して想像するしかなかった平安宮廷貴族の美意識の高さを、そのものずばり、目を通して実感した瞬間であった。
美術館で求めた「湯木美術館蔵品選集」から、藤原公任の筆と伝えられる石山切は「伊勢集」の断簡で、料紙は破れ継ぎと重ね継ぎで構成されたものに銀泥で鳥と松・柳・紅葉や草花の文様が描かれ、さらに金銀の砂子が撒いてある、極めて手の込んだものである事を知った。
日記・歌集を書きしるすにも、用済みとなった紙を裏返して使わなくてはならないほどの紙不足の時代に生まれあわせたとしても、「石山切(伊勢集)」に見られるように、作者の優れた色彩感覚と職人技の粋を結合した、これほどまでに華麗な装飾料紙を用いて風雅の極を表現できる幸せな時代に藤原公任は生まれ合わせたのだとつくづく思う。
21世紀の私たちには決して真似の出来ない美を表現した藤原公任の作品は1千年を超えてもなお燦然と輝き続けているが、デジタル狂想曲のこの時代、私たちの世代は果たしてどれだけの美を1千年後に残せるだろうか。