後白河院と寺社勢力(30)「獅子身中の虫」と糾弾される悪僧・神人

 永久元年(1113)の春、朝廷は興福寺の末寺清水寺別当に仏師の法印円勢を任命した。これは、名工と謳われた仏師定朝が清水寺別当に任命された先例にならい、かつ円勢が定朝の孫弟子であることが考慮されたのだが、この人事に対して、清水寺の本寺である興福寺の僧徒が「定朝は清水寺で得度したが円勢は延暦寺で出家しており、興福寺系の僧侶ではない」との理由で円勢の罷免を要求し、興福寺氏神である春日社の神木を捧げて物凄い勢いで入洛して嗷訴(※)に及び、その勢いに押された朝廷は興福寺の要求を受け入れて興福寺出身の僧を清水寺別当に任命した。


 ところが今度は延暦寺の衆徒が大挙して鎮守の日吉社の神輿を奉じて院御所に迫り、これを機に朝廷は約一ヶ月に亘って興福寺延暦寺の双方から激しい嗷訴に見舞われる事になり、万策つきた朝廷は石清水八幡宮鳥羽天皇宣命を捧げて騒動の鎮圧を祈願したのだが、その宣命


「近年この方、神社に奉仕する神人は先に濫悪をなし、僧侶は貪婪を本質となして、あるいは公私の田地を押領し、あるいは上下の財物を掠め取る。京・畿内はもとより辺境も厭わず徒党を組み群れを成して朝廷に押しかけ市中に溢れる。これは単に人民を滅ぼすだけでなく、同侶同伴とも果てしなく合戦を繰返す。本来の学を投げ捨てて武器を携え、袈裟を脱ぎ捨てて甲冑を被り寺院内の堂宇を焼き討ちにし、房舎を打壊す(略)」と悪僧・神人の濫悪を並べ立て、


「禁制に力なく検非違使を出動させるにも憚りがあり。遂に王法を忘れて、既に仏法の戒律を破る。獅子の身中の虫の、自ら獅子を食らうが如し(略)」と、悪僧・神人を「獅子身中の虫」に例えて、仏法も仏徒のために滅びるであろうと糾弾している。


 嗷訴は院政時代から始まったとされるが、鳥羽天皇の時代には悪僧・神人が朝廷にとって手の施しようのなかった存在だった事をこの宣命は語っている。


(※)嗷訴(ごうそ):強訴とも。為政者に対して徒党を組んで強硬に訴えること。院政期前後の南都北嶺(主として興福寺延暦寺)の僧兵らの神輿や神木を奉じての入洛が有名。


参考文献

 「古文書の語る日本史2平安」橋本義彦編 筑摩書房

    
  

 「日本の歴史6武士の登場」竹内理三 中公文庫