後白河院と寺社勢力(26)寺社荘園(5)最大の寄進者―法皇

  寺社荘園は院政期に入ると爆発的に増加するが、それもそのはず、もっとも盛大に寺社への荘園寄進を行ったのは白河・鳥羽・後白河の3代の法皇であり、彼らは、高野山・熊野・東大寺興福寺・石清水八幡・延暦寺園城寺・東寺などへ頻々と御幸し、また、修法・納経・落慶供養といった煌びやかで華美な法会を度々催して、その手土産、或いは引出物として荘園寄進をしたのであった。


 しかし、荘園寄進といっても、実態はプレゼントなどといいう気前の良いものではなかったようで、寄進を受けた寺社側はその荘園の領主となるものの、寄進した側の院(法皇)は本家として領家の上座に位置して、寺社に対しての影響力を発揮することになる。


 また、寄進された荘園自体も本来の院領荘園とは限らず、なかには公領から手ごろな土地を権力者の勝手な思惑で寺社に寄進して、そこで改めて「荘園」として設定するものもあり、そうなると寺社寄進が院領荘園を拡大する手段となったのではと思えてくる。


 因みに、院政者の寺社御幸を習慣化させたのは白河法皇で、8歳の幼帝堀河天皇に譲位し翌年の寛治2年(1088)から高野山・熊野・金峯山(吉野)と立て続けに御幸(ごこう)を行ない、特に熊野御幸に関しては、鳥羽上皇・待賢門院を伴う三度の「三院御幸」を挟んで計9回に及ぶが、後継者の鳥羽法皇は28回、後白河法皇に至っては34回もあの険しい熊野に足を踏み入れている。  


下図は後白河院が催した如法経供養と写経奉納の儀式(「続日本の絵巻 法然上人絵伝」中央公論社より)。





参考文献 (「寺社勢力」黒田俊雄著 岩波新書