後白河院と寺社勢力(19)国守の受難(2)徴税中の部下を殺された

 長保元年(999)8月、大和国城下東郡で早米(早稲)の徴収をしていた大和守源孝道の郎党が数十人の暴徒に殺害された。当時の国守が中央政府に提出した犯罪捜査記録ともいえる「大和国解」(※1)によると、この事件は右衛門権佐(ごんのすけ)藤原宣孝所領の田中荘の荘官を首謀者とする十数人が共謀して犯行に及び、追っ手を差し向けた時には共犯者の内の17人のある者は京へ、ある者は興福寺に逃げ込むというまことに素早い行動力であったという。


 因みに、藤原宣孝紫式部の夫として有名だが、親子ほど年の離れた二人が結婚したのが永年2年(998)年であるから、この凶行は二人の新婚間もない頃に生じたと思われる。

 ところで、大和国司(※2)が早米の徴税を行っていた藤原宣孝所領の荘園は納税を免除された免田ではないので、犯人たちが請作している荘田にかかる早米は国司(国守)に納めるべきものであるから、この凶行は税率や損田控除を巡って徴収側の国守郎党と税を納める側の田堵・負名たちとの間で発生したものだが、国司の役人の殺害にまで及んだのは、国司側を怯えさせて交渉を有利に運ぶ意図からと見られている。


 さてここで、国守と田堵・負名層の対立を深めた当時の国衙の徴税手続きとはどのようなものであったかを見てみたい。


 先ず、国守は米の収穫前に検田使を派遣して、作付面積と得田(収穫があり年貢を取得できる田)と損田(自然災害などの被害で収穫できない田)の面積を調べて馬上帳(※3)を作成するが、この時に、課税面積から控除される損田をどう見積もるかが国守側と田堵・負名側との争点となる。 
 次に、国守は作柄を見て税率を決め、その税率と馬上帳をベースにして田堵・負名ごとの課税面積と税額、控除田数と控除額を集計した検田帳を作成して、それを受けて税所(さいしょ)(※4)は田堵・負名ごとに徴符(納税通知書)を発行する。収穫時になると徴符を携えた収納使が郡司の役人等を指揮して田堵・負名層に対して収納事務を執り行うのだが、この時、国守が持つ税率設定や付加税の相当の裁量権から生じる税率設定が国守側と田堵・負名側の対立要因となる。

 
このような「国務請負人」としての国守の厳しい徴税に対して、10世紀から11世紀中頃にかけては結束した田堵(たと)・負名(ふみょう)層による国守や国使の襲撃・殺害といった凶行が頻発していたが、然し国司役人殺害は重罪であり、捕まれば死刑または数々の権利(私領や公田耕作権)などの没収、恩赦の対象にもならず、犯行側にとってはあまり割の良い行為とは思えないが、それでもこのような凶行が後を絶たなかったのは、雇い主である荘園領主の中央政界への圧力で社会復帰できる可能性があったからである。


(※1)国解(こくげ):諸国の国司から太政官または所管の中央官庁に提出した公文書。

(※2)国司(こくし):律令制で朝廷から諸国に赴任させた地方官。トップの守(かみ)を初め介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4等官とその下に史生(しじょう)があった。その役所を国衙と呼ぶ。

(※3)馬上帳(ばじょうちょう):検注帳の事。検田使が騎馬で巡検したからこの名で呼ばれる。

(※4)税所(さいしょ):平安中期以降の国衙(こくが)の役所の一つ。一国の租税・官物の収納等の事務を司った。


(追) ところで、ここに登場する田堵(たと)・負名(ふみょう)とは如何なる者であるかを理解するため、「日本の中世〜その社会と文化」梓出版社から次のように引用した。


【負名とは、国守(受領)からその任国内の一定面積の土地(公田)を請作し所定官物の納入義務を「その名に負って」請負っていた者を指し、十世紀には国衙領の土地(公田)の耕作に当たっていた農民は一般に負名と呼ばれた。
しかし、彼らは他方で国内の数々の荘園請作にも乗り出しており、一般に田堵とも呼ばれて活躍しており、当時の農民は国衙領(公田)と荘園との間に流動的な耕作関係を持つのが普通となっていた】


参考文献は以下の通り、

「日本の歴史7武士の成長と院政」下向井龍彦著 講談社学術文庫


 

「日本の中世〜その社会と文化」奥富敬之、佐藤和彦、鈴木国広、田代脩、中尾尭著 梓出版社