後白河院と寺社勢力(31)寺社経済を支える悪僧・神人(1)高利貸

 保延2年(1136)、鳥羽上皇比叡山延暦寺境内にある日吉社(ひえしゃ)の大津神人から、「近年上下の諸人が神物を借り請けながら全く弁済をしない。借りる時には丁寧な契約状を交わしておきながら、いざ返済を催促すると、『院宣がないと返済しない』と申しますので、上皇より院宣を賜りたい」との訴状を受け取った。


 ところが訴状を一覧した鳥羽上皇は「院司・院下部など院中に伺候する者については自分が裁定するが、それ以外の者の事案は崇徳天皇が扱うように」と責任逃れをして実権のない崇徳天皇におしつけたのである。


 なぜ鳥羽上皇が自らの判断を避けたかといえば、訴状に名を連ねた債務者の大半が、白河法皇鳥羽上皇の近臣の知行国主・受領(国守)層か、大膳寮・内匠寮・蔵人所など中央諸司の官人で占められ、鳥羽上皇の立場はこれらの債権者を擁護しなければならなかったからである。


 院政期の寺社権門は、仁和寺、六勝寺、伊勢神宮、上下賀茂社など、王権への依存度を強めるタイプと、延暦寺興福寺日吉社、春日社など、王権との相互依存を保ちながらも自立度を強めるタイプに分かれていた。


 そして自立度を強める後者の寺社では、悪僧・神人が所領荘園から上がる年貢米を元手に諸国を往来して「出挙」と呼ばれる高利貸活動を活発に行い、寺社の強固な経済基盤の担い手として際立った存在感を発揮していたのである。


 彼らは、荘園から上がる年貢米を、仏寺・神事に奉げる僧供米(そうくまい)・上分米(じょうぶんまい)と神聖化して、借手の信仰心に訴えるので、金利がどれほど高くとも元本の回収は確実であったから、儲けの大きいビジネスとして津々浦々に拡大できた。


ここで因みに、「出挙」を広辞苑で引くと、

【「出」は貸付、「挙」は回収の意、古代の利子付き消費貸借。国が行なう公出挙(くすいこ)は、春に官稲を農民に貸し付け、秋に3〜5割の利稲と共に回収。名目は営農資金であったが、奈良中期から利稲収入を目的とする租税的色彩を強めた。
寺社や貴族・豪族が行なう私出挙(しすいこ)は稲のほか銭や物も貸し、年5〜10割の利子を公認された】

とあり、奈良時代には朝廷が租税に高利貸の仕組みを取り入れた事がわかる。


 冒頭に登場した日吉社は、全国から日吉上分米という神物(じんもつ)を徴収していた。これは初穂として神社に捧げられるもので、その運送に当たる大津の日吉神人が諸国を行来して上下の諸人に日吉上分米を貸付けて利息を取り、その儲けで神事を滞りなく執行していたのである。


 また、同時期の瀬戸内海では、石清水神人、祇園神人らが荘園年貢を元手に、上は権門貴族・国司から下は一般庶民まで幅広く「出挙」活動を行い、国衙(※)や荘園が都に年貢を運ぶ運京船に乗り込んで略奪的な債権回収を行なったが、彼らを捕縛して検非違使に引渡すのも大寺社で、有力権門寺社は瀬戸内海沿岸の各地に港湾荘園を持ち、武装した僧徒・神人によって独自の海運ルートを確保して相互に競合していたとされる。


恐るべし寺社勢力、恐るべし悪僧・神人、というべきか。


(※)国衙(こくが):律令制で朝廷から諸国に派遣された地方官である国司の役所。


参考文献は以下の通り

「中世の借金事情」井原今朝男 吉川弘文館

  

「日本の歴史07 武士の成長と院政」下向井龍彦 講談社学術文庫