後白河院と寺社勢力(16)国守から寺社権門に逃れる理由(わけ)

 さて前述した「猫怖ぢの太夫」藤原清廉(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)の息子実遠(さねとう)は在地では猛者として知られ、その威力を発揮して父から相続した大和・山城・伊賀の領地の人間をまるで従者のようにこき使って資産を肥やす一方で、国守に対しては武力で立ち向かって長い間、官物(※1)納付を拒否していた。


 しかし晩年の衰えとともに武力で闘う力を失った実遠が、国守に妥協して官物を納めざるを得なくなったのは致し方ないとしても、彼の小作人たちが、国守の課す臨時雑役(※2)を厭って臨時雑役免除の権門荘園に次々に逃げだし、領地が荒地に化すのは耐え難いことであった。


 そこで、ともかくも、小作人を呼び戻し、荒地を元の実り多い田畠に戻すには、国守との政治折衝で合法的に官物・臨時雑役の免除を勝ち取るしかなく、そのためには有力権門の傘の下に入るのが得策と考えた藤原実遠は、長久4年(1043)に伊賀国名張郡の矢川村を、京都の禅林寺座主兼東大寺別当の深観に、加地子(※3)取得権だけ保留して米100石で売却した。


 これは深観が花山天皇の息子でもあったので、寺社権門だけでなく有力貴族の権門の傘下に納まる事で、自分の所有地にかかる官物・臨時雑役を免除させることを期待してのことであった。


 その藤原実遠の名前が、天栄1年(1110)東大寺興福寺が所有地を巡って争った時に、興福寺側から提出された証拠書類のうちの、長治元年(1104)7月22日付の、伊賀国司(国守)と興福寺使が立ち合って作成した立券状(土地公正証書)に見える。


 それには「・・・・・ならびに藤原真遠(実遠)の寄文(寄進状)をもって、旧(もと)のごとく御庄(荘)の田畠山野等の雑役を免じる事」と書かれており、この事は、該当案件が興福寺の所領であることを証明し、かつ、実遠が興福寺に寄進した田畠山野に対して国司からの雑役を免除するために作られた事を示している。


 こうしてみると藤原実遠は、国司から私営田領主としての権益を守るために、積極的に東大寺興福寺など南都の寺社権門傘下に加わっていた事がわかる。


(※1)官物(かんもつ):律令制で諸国から政府に納める租税や上納物

(※2)雑役(ぞうやく):国司(国守)が強制的に課す労役

(※3)加地子(かじし):荘園領主の取る本年貢に対して、その下で私領主と呼ばれた地主的中間層が取る追加の地代。