後白河院と寺社勢力(23)寺社荘園(2)荘園を巡る東大寺と伊賀守

  ところで、「私の任国には摂関家の5家を含む中央貴族6家と興福寺東大寺の所領が満ちて一勺(0.018ℓ)の租税も徴税できません」と太政官に泣き付いた伊賀守藤原棟方であったが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)、

 その同じ訴状で「前々の伊賀守藤原顕長以降に認定された荘園の牓示(※1)を抜き取って、それらの荘園をもとの公田(※2)に戻して、これまで未納の租税や上納物を徴収したい」と申請し、太政官から牓示抜き取りの官吏として伴某という書記の派遣を受けている。


 さて、太政官から派遣された伴某は、前々国守以降に承認された荘園の牓示を抜き取り租税を徴収しようと奮闘したようだが、あちこちで激しい抵抗に遭遇してなかなか思うように事が運ばなかったようだ。

 その様子を東大寺領「板蝿杣(いたはえのそま)」の攻防からみてみたい。

 板蝿杣は755年(天平勝宝7)に聖武天皇東大寺大仏殿を建立する際に、その材木を供給する木山として東大寺喜捨した由緒ある寺領で、その後東大寺はこの寺領の開発と経営を積極的に推し進め、1033年(長元6)には念秀という上座(社務遂行三役の最上官)が国司(国守)や私領主に工作して板蝿杣を東大寺領と確定し、翌年に杣の住人の臨時雑役免除の太政官符を得、さらにその4年後に伊賀国守から杣内の臨時雑役と官物(租税や上納物)の免除を得る事になり、当然念秀は板蝿杣の四至(※3)に牓示を立てた事であろう。

 伊賀守藤原棟方が太政官に上奏した「前々国守藤原顕長以降に設定された荘園の牓示」には、その上座念秀が建てた牓示も含まれる事になり、その板蝿杣では、東大寺から派遣された威儀師なる僧某が数十人の荘民を指揮して、伴某と郡司たちが抜き捨てた牓示を元に戻し、その後は伊賀守方と東大寺方で牓示を抜いたり戻したりの攻防が繰返され、挙句の果てに焼討ちや武力衝突にまでエスカレートして、新しい伊賀守・小野守経(おののもりつね)に代わっても収まらなかった。

 東大寺としては下級貴族出身の新任国守など無視して、少しでも所領を増やそうと権門意識を振りかざすので益々紛争がこじれて、遂に郡司側が東大寺側の軍兵を上回る雑兵を指揮して強硬措置にでて、46町5反の田地を没収したとか。

 このことからも、大寺社が最大の経済基盤たる荘園を確保し拡大するために武装化していた事が読み取れる。


下図は春日社が領地内の百姓を武装させて警護に充てた雑兵。

(「続日本の絵巻14春日権現験記絵下」中央公論社より)

 


(※1)牓示(ほうじ):杭または石などによって領地・領田の境界表示としたもの。

(※2)公田:国守の管理下にある国有の田地。

(※3)四至(しいし):田地・屋敷地などの境界。所領の東西南北の四方の境界。

 
参考資料:「日本の歴史6武士の登場」竹内理三 中公文庫